習志野文化ホール 日本舞踊発表会 2022・11・5

翔舞會  令和4年11月5日(土)於:習志野文化ホール  (1/9)          2022/9/10

 端(は)唄(うた)  【初春さわぎ】                       【初春】 歌詞の意訳        (2022.01.19編集)  

 

初春や 門に松竹 伊勢海老や

     しめも橙 うらじろの 
     鳥追う声も うららかに 

悪魔祓いの獅子舞や        

弾む手毬の拍子良く 

つく羽根ついて ひいふうみい

よっつ 世の中 良い年と 
     いつも変わらぬ のし昆布

 

この家 座敷は 目出度い座敷

     鶴と亀とが 舞い遊

 

   こぼれ松葉は あやかりものよ 

   枯れて落ちても 夫婦づれ

 

   サアーサ 浮いた 浮いた

   ヤート  ヤート ヤート

 

 

 

 端唄『初春(はつはる)』では、日本の新春・正月における風物詩や縁起物・伝統行事・風習などが歌詞に散りばめられている。ここでは、正月における外の様子が歌われている。

 意訳すると、以下のようになるだろうか。

 

 めでたいお正月には、松竹や伊勢海老の門松を、

 しめ縄には橙やうらじろを飾ります。

 鳥追い唄を歌う門付芸人の声もうららかに聞こえ、

 悪魔祓いの獅子舞や、

 子供たちが手鞠を弾ませたり、

 つく羽根を突いてひいふうみいよと数えています。

 今年も世の中が良い年でありますように。

 またのし昆布のように、いつまでも変わらず長生き

 でき、子孫が繁栄されますように。

 

   *「よっつ」に続き「世の中」と

     調子の良い音合せがある

 

(2022.01.19編集)

【初春】の歌詞について:

橙(ダイダイ)は、ミカン科ミカン属の常緑樹で、果実は冬を過ぎても木から落ちず、そのまま木に置くと数年は枝についていることから「だいだい(代々)」と呼ばれ、縁起物となっている。

ウラジロは、シダ植物門ウラジロ科に属するシダで、正月のお飾りに使われる。 

鳥追うとは、小正月(1月15日)に行われる年中行事「鳥追い(とりおい)」を描写したもの。田畑を鳥の被害から守ることを祈念して行われる。

また、正月の祝い芸として各戸を回って鳥追い唄を歌う門付芸人のことも指す。阿波踊りの女性の扮装はこの鳥追い女の風俗が元になっている。

 

【さわぎ】とは:遊里独特な座敷唄の一つで、歌詞は幾つもあり、季節や場面にふさわしいものが演奏される。有名な歌詞に『めでた めでたの若松様よ 枝も栄えて 葉もしげる』がある。ここでの祝儀唄は、座敷を誉め陽気な雰囲気をかもし出している。  

さわぎは芝居などでは遊里の場面で舞台が変わる際にも使われる賑やかな曲。またお座敷で芸者さんが色々踊られた後、最後のフィナーレとして大勢で踊られる事が多いようだ。

はうた【端唄】とは: (ウィキペディアより)

端唄とは、江戸初期にあっては長唄との対語。端唄には二つの意味合いがあり、江戸端唄の前身をさす場合と、短い上方唄(地唄)をさす場合とがある。

江戸端唄は、江戸時代中期以降における短い歌謡の総称である。1920年代までは小唄も端唄の名で呼ばれていたが、その後端唄うた沢・小唄俗曲とはっきりと区別されるようになった。 

端唄が流行したのは特に天保の改革以後であるとされる。それは改革時に三味線が贅沢なものと見なされ、庶民が三味線を弾く事を幕府から禁止されてしまったため。約10年後にようやく解禁され、そこで覚えたての小曲をすぐに弾くことが出来る、端唄がもてはやされるようになったのである。      扇は天紅:白地、白竹で赤の縁取り

  

 

 

翔舞會  令和4年11月5日(土)於:習志野文化ホール  (2/9)           2022/9/10

 

 

京の四季

 

 

 

【解 説】

京都の祇園を中心に 東山、円山の風物を点景に詠み込み、京都らしい優美さと落ち着いた趣を思わせる一曲です。  上方端唄。文久(1862~1864)前後の流行で 祇園で遊んでいた儒教の学者、中島棕隠(そういん)の作詞によるとされています。

 

 

京の四季・夏

祇園豆腐の二軒茶屋」とは、当時八坂神社の表参道にあった二軒のお茶屋さん。そこでは先が二本に割れた竹串を木綿豆腐に刺して味噌を塗って焼いた田楽豆腐が名物でありました。二本刺しても」は、侍が腰に刀を二本さしているのになぞらえて、「お堅いお武家様と同じ二本差しでも、祇園の豆腐は柔らかい」という洒落です。

 

 

 

 

 

 

 

翔舞會  令和4年11月5日(土)於:習志野文化ホール  (3/9)          2022/9/10

 

 

 

【解 説】

 

鹿の子模様は、小鹿の背中の斑点をデザイン化したもの

 

新鹿の子とは?

「屋敷娘」から「娘道成寺」の要所を取り入れ優雅で華麗な道明寺を踊るもの。満開の桜の野山を背景に、三段傘を振りかざし、派手で見栄えのする娘らしい踊りです。

桜の花びらを集めて毬をつくり、弾みをよくするために糸を巻く仕草もある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翔舞會  令和4年11月5日(土)於:習志野文化ホール (4/9)           2022/9/10

清元 「玉 屋」

作詞:二代目瀬川如皐  作曲:初代清元斎兵衛(清元栄治郎説有り)  初演: 天保3年(1832年)7月、江戸中村座。 本名題を「おどけ俄煮珠取(おどけにわかしやしゃぼんのたまとり)」、通称を「玉屋」と言います。 主人公は当時の人々には貴重で珍しい「シャボン玉」を吹いて見せるという大道芸人です。

 【歌 詞】

〽︎サァサ寄ったり見たり 吹いたり評判の玉や

商う品は八百八町 毎日ひにちお手遊び 子供衆寄せて辻々で お目に掛値のない代物を お求めなされと辿り来る
(〽︎サァサァおなじみの玉屋でござる お子さま方のお慰み 何でもかでも 吹き分けてご覧に入れましょう 先ず玉の ャ始まりは)
〽︎今度仕出しじゃなけれどもお子様方のおなぐさみ ご存じ知られた玉薬 鉄砲玉とはこと変わり 当たって怪我のないお土産で〽︎曲は様々

大玉小玉 吹き分けはその日その日の風次第 まず玉尽くしで言おうなら〽︎たまたま来れば人の客 などとじらせば 口真似の こだまもいつか呼子鳥 たつきも知らぬ肝玉もしまる時にはそろばん玉の 堅いおやじに輪をかけて 若いうちから 数珠の玉 オットとまった性根玉 しゃんとそこらでとまらんせ

〽︎とまるついでにわざくれの蝶々とまれをやってくりょ

〽︎蝶々とまれや菜の葉にとまれ菜の葉いやなら葭の先へとまれ それとまった 葭がいやなら木にとまれ

〽︎つい染み易き廓の水〽︎もし花魁へおいらんと 言ったばかり で後先は恋の暗闇辻行燈の陰で一夜は立ち明かし〽︎格子のもとへも幾度か 遊ばれるのは初めから〽︎心で承知しながらも もしやと思うこけ未練 昼の稼ぎも上の空

〽︎鼻の先なる頬かむり〽︎吹けば飛ぶよな玉屋でも お屋敷さんのお窓下 犬にけつまずいてオヤ馬鹿らしい

〽︎口説きついでにおどけ節〽︎伊豆と相模はいよ国向かい 橋を架きょやれ船橋を 橋の上なる六十六部が落っこった〽︎笈は流るる錫杖は沈む 中の仏がかめ泳ぎ〽︎坊さん忍ぶは闇がよい〽︎月夜にはあたまがぶらりしゃらりとのばサ頭がぶらりしゃらりと こちゃ構やせぬ〽︎衣の袖の綻びも構やせぬ しどもなや

〽︎折も賑う祭礼の 花車の木遣りも風につれ 〽︎オーエンヤリョー いとも畏き御代に住む 江戸の恵みぞありがたき。

 

 

翔舞會  令和4年11月5日(土)於:習志野文化ホール  (4!/9)          2022/9/10

清元 「玉 屋」 【解 説】 

シ玉屋」とは「シャボン玉売り」のこと。

◎ シャボン玉が日本に伝わったのは、江戸時代。ポルトガルからと言われています。江戸時初期の寛文、延宝(1661~80)の頃にはすでに江戸の町で流行していたそうです。当時は石鹸は一般的ではなく、シャボン液には無患子(ムクロジ)の粉末などが用いられ、現代のプラスチックストローの代わりに細い竹や葦の茎を使っていました。

◎  冒頭の歌詞に 「さぁさ 寄ったり 見たり 吹いたり 評判の 玉屋」と、子供や近所の人を集めるための売り声が入ります。。この売り声には「4ったり 3たり 2いたり 1ょうばん」と洒落て数字が隠されています。 現在では思いもつかない職業ですが、「玉」に関連するものを歌詞に多く盛り込んでいて、当時の江戸庶民の風俗や文化が感じられます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翔舞會  令和4年11月5日(土)於:習志野文化ホール (5/9)            2022/9/10

羽根の禿(はねのかむろ) 【歌 詞】

    恋の種 まきそめしより色と言ふ
    ことばはいづれ このさとに 誠こもりし一廓
    丸い世界や粋の世に 嘘とは野暮のあやまりと 笑ふかむろのしほらしや
    かむろかむろと沢山さうに 言うてくだんすな
    こちゃ花魁に 恋の初わけや手くだのわけも
    教えさんしたふでの綾 よう知ると 思はんせ
    おお恥づかしや恥づかし しどけなりふり可愛らし

文がやりたや 彼の君さまへ 取りや違えて余の人にやるな
はなの彼の様の サア花の彼の様の手に渡せ
朝のや六つから 六つから 上衣下衣ひっ重ね
かむろは袖の振り始め つく 突く突くには羽根をつく
一い二う三い四お 五重に七重に

琴は十三十四十五 手はまおく
二十一い二う三い四お 見よなら 見よなら
松をかざして梅の折枝それさ これさ それ好いた三味の手
梅は匂ひよ桜は花よ 梅は匂ひよ桜は花よ いつも眺めは富士の白雪

 

 

 

青楼十二時 戌の刻(喜多川歌麿)花魁と禿

羽根の禿(はねのかむろ)」の解説

「禿(かむろ)」とは吉原に勤める子供のことで、将来、立派な花魁になるべく、花魁たちの身の回りの世話や小間使いに従事していました。

「羽根の禿」は、そんな禿がお正月に遊びの時間をもらい、羽根付をしている様子を描いたもので、いっぱしの花魁をしぐさをまねているのに、子供らしいあどけなさも表現するのが特徴です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翔舞會  令和4年11月5日(土)於:習志野文化ホール (6/9)            2022/9/10

 

 

 

鈴木春信「鷺娘」

長唄 「鷺娘」 解説

初演は宝暦十二年(1762年)4月市村座。二代目・瀬川菊之丞によって、六変化舞踊「柳雛諸鳥囀」(やなぎにひなしょちょうのさえずり)のひとつとして演じられました。作曲は冨士田吉治、杵屋忠次郎。

舞台の流れはまず、白無垢の振袖に黒の帯をした鷺の精が現れ鳥の所作を見せます。 やがて衣装を引き抜き振袖のかわいい娘姿となり、恋の口説きを見せます。 しかし再び鳥の姿となり地獄の苦しみを受ける様を見せ幕となります。 ざっくり解説するとこのようなストーリーなのですが、その背景などはよく分かっていません。

 

わからないことだらけ

①娘はどんな人物で、誰に恋をしたのか  ②鷺が人に恋をして、人の姿になって現れたのか  ③鷺でありながら人に恋をしたために責めを受けたのか  ④逆に、恋に焦がれた人間の娘が、鷺に身をやつしたのか  ⑤なぜ地獄の責め苦を負うのか  ⑥責め苦は恋の苦しみの例えなのか、文字通り閻王(閻魔大王)による罰なのか。

翔舞會  令和4年11月5日(土)於:習志野文化ホール  (7/9)               2022/9/10

 

水仙を美しい青年にたとえるのは西洋ばかりではありません。江戸時代、一七五五(宝暦五)年に作られた「水仙丹前」という舞踊曲でも、人気の歌舞伎俳優が水仙に見立てられています。♪水仙の花の姿や若衆ぶり…と始まるこの作品。初代中村粂太郎(くめたろう)(一七二四〜七七年)を水仙の花にたとえ、当時流行の格好いい歩き方「丹前」を盛り込んでいます。粂太郎は舞踊の名手で、娘や傾城(けいせい)役を得意とした若女形でした。

 この作品に特に劇的なストーリー展開はなく、丹前の他に、紅葉の名を読み込んだ「紅葉づくし」や恋の様々(さまざま)を綴(つづ)る「恋づくし」、毛槍(けやり)を振る「槍踊り」などがあり、言葉遊びの風雅な趣と優美な旋律に乗せた演者の流麗な動きが見どころとなっています。とにかく粂太郎の麗しい姿を見ることが眼目といえるでしょう。初演当時の振りは伝わっておらず、今日では若衆や遊女の姿など各流派で様々な振り付けがされています。

 

 

◎ 丹前といえば今では「どてら」をイメージしてしまうが、そもそもは湯女として一世を風靡した、勝山が着ていた衣装が原点。勝山の勤める湯女風呂は、神田雉子町の松平丹後守の屋敷前にあった。ゆえにこの辺りの湯女風呂は、丹前風呂と呼ばれていた。そこのスターが勝山だ。顔もいいけど気風もいい。それに唄、三味線が巧いときている。着物のセンスも独特で、外出時の出で立ちは、袴に木刀の大小を差し、編み笠をきりりと被る。まさに武家風の男装の麗人。旗本奴、侠客がほっておくわけがない。
 ちなみに今日京都で、祇園祭の時だけ舞妓が結う髪形は”勝山”といい、彼女の創案によるもの。勝山の元に通う彼らが、その衣装を真似て伊達を競うようになり、いつしか「丹前奴」「丹前風」という称が生まれた。奴といっても下僕の奴ではない。伊達男の意味だ。つまるところ、丹前とは、袖口の広い勝山好みの、おしゃれな綿入れ羽織といったところ。

 

翔舞會  令和4年11月5日(土)於:習志野文化ホール  (8/9)                2022/9/12

常磐津 『祭りの花笠』

作詞:猿若 清方 / 作曲:常磐津 菊兵衛 / 振付:猿若 清方。昭和15年5月初演。

【歌 詞】                                                               『祭りじゃえ 屋台囃子に浮かれ立つ 西に富士ヶ嶺東に筑波中を渡るる宮戸川 三社祭りの賑わいに いおう勇の金棒が なりもすっかり きりりとしゃんと ここや彼しこの町内で 頭頭と立てられて 今もお酒処でつい飲まされた ほろ酔い気嫌の千鳥足 筑波ならいに弥生月 風も嬉しき戻り道 神楽ばやしを遠音に聞いて女力に打つ切り火』          セリフ 「チエッ 心意気をやりアあがる」                                              畜生め 気がもめる もめやもめや御神輿さんじゃ 三社祭の境内にずっと並びし諸商人あきんど) お祭り番付 三社様お祭り番付 /時節あほだら経 一寸出ましたあほだら坊主が口から出まかせ唱える文句は無い無いづくしで申そうなら 畑にゃ蛤掘ってもない 飯屋のご飯にゃ盛りがない 私の財布にゃ銭がない 蛙のおへそは見たこと無い 坊主の頭は結うたこと無い /ほうづきや ほうづき 丹波ほうづき 海ほうづきや エーほうづき /サアサア皆さん買っとくれ飴は一流大白練 柔らかにて歯につかず /名代(なだい)名代当代名代の里神楽 /人目忍んで逢いたさ見たさ あの夜姉さんに一寸惚れて 文の代わりに鍬やった 惚れ(掘る)たとそれで判じ物 /様は来たかと窓の戸あけりゃ 様は様じゃがお月様 /ヤ引けや引け引け 引くは金棒 いなせに粋に 頼むぞ若い衆 合点だ /勇みよや 実にも上なき獅子王の 万歳千秋限りなく祭りはお江戸のーー』

【解 説】

◎ 昭和15年5月初演。朝鮮、満州、九州の2ヶ月に及ぶ演奏旅行のために、何か面白く楽しい物というので、猿若清方が立案振付けしたもので、 各地で大好評だった。こうした創作物は珍しく、自演他演を含めて200回以上の公演を行っている。

◎ ほろ酔いの頭が金棒をかつぎ夜道から出て、本舞台に来て神輿の踊りから三社境内の祭りの番付売り、阿呆陀羅経、ほうづき売りや飴売り、お神楽等気分を変えて出て来て、金棒を振り回しリズミカルな踊りで山をつけ、サラリと終わります。踊っていても、見ていても、理屈抜きで楽しいものになっています。  

                    【日本舞踊曲総覧】 森治市朗編 創思社 (昭和40年11月発行)より

◎ 「ほうづき」 現在、浅草寺では月に1度、このうち7月10日は最大のもので、46,000日分の功徳があるとされることから、特に「四万六千日」と呼ばれる。46,000日はおよそ126年に相当し、人の寿命の限界ともいえるため、「一生分の功徳が得られる縁日」である。 ほおずきの実を水で鵜呑み(丸飲み)すれば、大人は癪(なかなか治らない持病)を切り、子供は虫気(腹の中にいると考えられた虫による腹痛など)を去る」という民間信仰があり、ほおずきを求める人で賑わったそうである。ちょうどお盆の季節でもあり、ほおずきを盆棚飾りに用いる方も多い。

◎ あほだらきょう【阿呆陀羅経】 「あほだら」を仏典の陀羅尼、曼陀羅などにこじつけて経文めかした語) 乞食坊主が小さな二個の木魚をたたき、または扇子で拍子を取りながら、世上の事件などに取材して作った八八調の文句を、「仏説あほだら経」という唄い出しで唄った俗謡。

 

 常磐津 『祭りの花笠』 藤間勘蓉  国立小劇場  平成12年8月23日

 

 

 

 

翔舞會  令和4年11月5日(土)於:習志野文化ホール   (9/9)                 2022/9/12

 

長唄 『白酒売り」

◎ 作詞者不明。初世杵屋正次郎作曲。二世西川扇蔵振付。天明五年(1785)江戸桐座初演。三世瀬川菊之の五変化舞踊「春昔由縁英(はるはむかしゆかりのはなぶさ)」の一つ。吉原での女白酒売の踊り

【白酒の言立】 

『東西東西そもそも富士の白酒といっぱ 昔々駿河の国 三保の浦に 白龍と云う漁夫 天人と夫婦になり

その天乙女の乳房より 流れに落つる色を見て 作り始めし酒なるゆえに 第一は寿命の薬 それゆえにこそ 東方朔はこの酒を 8杯飲んで8千年 浦島太郎は3杯飲んで3千年 三浦の大助下戸なるゆえに  一寸ちょうづけしたばかりで 106まで生きのべられたのでござりまする さて又 我が朝にての 始まりは』

【歌 詞】                                                           『神代の昔 素盞嗚命(すさのおのみこと)と云いし大臣の  彼の足名稚手名稚(なっち手なっち)の二人の末社に詔り(みことのり) 八塩醸して造るとかや 出雲八重垣妻籠に 堅いお客もぶどう酒の お腰のものは船宿の 戸棚の内にあられ酒  ささの一夜をくれ竹の  くねるは癖の男山  つい後朝の七ツ梅 茶屋が迎いの玉子酒 濡れていよとのみぞれ酒 あゝままよ いっそ伊丹の濁酒 末は諸白もろともに 千年不老酒 養命酒 人の池田も味醂用いぬ気まま酒 今 白酒の頬に出でて 赤きは酒の科ならず 身は習わしの奈良坂や 児の手の二人寝は 尽きぬ縁しの楽しみと「白酒・白酒」打ちかたげてぞ 急ぎ行く』

【白酒の言立の解説】
現代風に訳すと、
「そもそも富士の白酒というものは、どんなものでございましょうか? 今からご説明申し上げましょう。
むかし昔、駿河の国の、三保の浦という所に白竜という漁師がおりました。 漁師は、天女と夫婦になりました。 その天から舞い降りた乙女の母乳を見て作りはじめた酒でございます。 このようにして作られ始めてから、白酒は、長寿に効く薬として飲まれた酒が、白酒でございます。中国は漢の政治家、東方朔(とうぼうさく)という人は、白酒を8杯飲んで8千年! 浦島太郎は、白酒を3杯飲んで3千年! 平安末期の武将、三浦の大助は、下戸ゆえ一寸口をつけただけで106歳!まで生き延びられました。」

【歌詞の解説】  

◎ 白酒を担桶に入れ て, 「山川や 山川や」 とふれ歩 く白酒売 の姿は,白酒が婦女子や子供にまで愛飲されていただけに,大江戸の街には欠くことのできない冬の風物詩でもあった。 題名のとおり、“酒の銘づくし”で、女郎遊びの男を描く。

◎ 通いに通ってやっと本懐という、女郎と初めて寝る夜は、船宿に刀を預けて猪牙(ちょっき船)を飛ばす。堅いお客もでれでれで、差しつ差されつ楽しい夜に、無理をいうのは男の癖。別れの朝の七つ時、茶屋から迎えが来て、気付け薬に飲む玉子酒。みぞれが降って寒いのは、そのまま濡れていよとのお告げかい。
◎ この時代、客はまず茶屋へ上がり、しかる後に揚屋へ登楼した。遊興の支払いは、帰りに茶屋でまとめてするものと決まっていた。だから、七つ時(朝4時)であろうとなんであろうと、茶屋は客を迎えにくる。
◎ ええ、ままよいっそこのまま居続けて、女郎とともに共白髪。 養命酒を飲んで、千年の不老不死。人の意見もどこ吹く風,酒を飲んで顔が赤くなっても、酒のせいじゃなく酒飲みの因果さ。