吉 原 雀

吉 原 雀    

            明和五年(1768)十一月  作詞 初代 桜田治助  作曲 富士田吉治 杵屋作十郎 

凡そ生けるを放つこと、人皇十四代の帝、光正天皇の御宇かとよ、養老四年の末の秋、宇佐八幡の託宣にて、諸国に始まる放生会

浮寝の鳥にあらねども、今も恋しき一人住み、小夜の枕に片思い、可愛い心と組みもせで、なんじゃやら憎らしい。 

その手で深みへ浜千鳥、通い馴れたる土手八丁、口八丁に乗せられて、沖の鷗の、二挺立ち、三挺立ち、素見ぞめきは椋鳥の、群れつつ啄木鳥格子先、叩く水鶏の口まめ鳥に、孔雀ぞめきて目白押し、見世清搔のてんてつとん、さっさ押せ押せ、ええ。

 馴れし廓の袖の香に、見ぬようで見るようで、客は扇の垣根より、初心可愛ゆく前渡り、

さあ来たまた来た障りじゃないか、またお障りか、お腰の物も合点か、編笠もそこに置け、二階座敷は右か左か、奥座敷でござりやす、はや盃持ってきた、とこえ静かにおいでなさんしたかえ、という声にぞっとした、しんぞ貴様は寝ても覚めても忘られぬ、笑止気の毒またかけさんす、何なかけるもんだえ。 

そうした黄菊と白菊の、同じ勤めのその中に、ほかの客衆は捨て小舟、流れもあえぬ紅葉ばの、目立つ芙蓉の分け隔て、ただ撫子と神かけて、いつか廓を離れて紫苑、そうした心の鬼百合と、思えば万年青、気も石竹になるわいな、未は姫百合男郎花、その楽しみも薄紅葉、さりとはつれない胴欲と、垣根にまとう朝顔の、離れ難なき風情なり。

 一薫きくゆる名香(仲人)の、その接ぎ木こそ縁のはし、そっちのしようが憎いゆえ、

隣り座敷の三味線に、合わす悪洒落まさなごと。 

女郎の誠と玉子の四角、あれば晦日に月も出る、しょんがいな、玉子のよいほい、ほい、よいほい玉子の四角、あれば晦日に月も出る、しょんがいな、一薫きはお客かえ、

君の寝姿窓から見れば、牡丹芍薬百合の花、しょんがいな、芍薬よいほい、ほい、よいほい、ほい、よいほい芍薬牡丹、牡丹芍薬百合の花、しょんがいな、

つけ差しは濃茶かえ、ええ腹が立つやら、憎いやら、どうしょうこうしょう、憎む鳥鐘、暁の明星が、西へちろり東へつろり、ちろりちろりとする時は、内の首尾は不首尾となって、親父は渋面嚊は御免、渋面御免に睨みつけられ、去のうよ戻ろうよと、いうては小腰に取りついて、ならぬぞ、去なしゃんせぬ、この頃のしなし振り、憎いおさんがあるわいな。 

文の便りになあ、今宵ごんすとその噂、いつの紋日も主さんの、野暮な事じゃが比翼紋、離れぬ仲じゃとしょんがえ、染まる縁しの面白や。

げに花ならば初桜、月ならば十三夜、いづれ劣らぬ粋同士の、あなたへいい抜けこなたの伊達、いづれ丸かれ候かしく。


◎【唄の始まりはこんな感じです】生きているものを野に放つことがはじめて行われたのは、四十四代目の帝、光正天皇(正しくは元正天皇)の御治世であったかと言うよ。それは養老四年(720年)の秋のこと。宇佐八幡さまのお告げによってはじまった放生会は、それから津々浦々に広まっていったのだよ。

◎ 題名の「吉原雀」とは、葦の原っぱに住む「ヨシキリ」という鳥の別名。大きな声で騒がしく鳴くことから、後に吉原遊郭の内情に詳しい人や、吉原遊郭をただ冷かして歩く素見の客を指す言葉になりました。 

◎ まず最初に、吉原仲の町を背景に夫婦の鳥売が、放生会の由来や、吉原の生活模様を語り踊ることから始まります。そしてこれには、鳥売に化けた源義家の危機を鷹の精が救うという話が裏に隠れています。

 ◎ 遊女の甘い誘い文句、素見の客の騒ぎ、座敷遊びや痴話げんかの様子が、鳥づくし・草花づくしの唄をはさみながら、軽妙な会話風の歌詞で綴られます。客の登楼から夜明けまでが概ね時間の経過にそって綴られます。登場するのは一組の男女だけではありません。武士や町人、うぶな客や馴染み客、いくつかの遊びの光景がアンソロジーのように編まれて、吉原の夜が描かれています。

◎ 江戸時代の「遊び場」の代表といえば吉原。現在の台東区千束(浅草寺から少し北に行ったところ)にあった約2万坪(甲子園球場の1.5倍ほど)の敷地面積を持つそこには、幕府から公に営業を認められた遊女屋が軒を連ねていました。そこは最先端の文化が花開く社交場としての顔も持ち、多くの流行を発信していました。

 

【吉 原 雀 】  解 説 1

・凡そ生けるを放つこと、人皇十四代の帝、光正天皇の御宇かとよ、養老四年の末の秋、宇佐八幡の託宣にて、諸国に始まる放生会(ほうじょうえ)

 

・浮寝の鳥にあらねども、今も恋しき一人住み、小夜の枕に片思い、可愛い心と組みもせで、

なんじゃやら憎らしい。 

・生きているものを野に放つことがはじめて行われたのは、四十四代目の帝、光正天皇(正しくは元正天皇)の御治世であったかと言うよ。それは養老四年(720年)の秋のこと。宇佐八幡さまのお告げによってはじまった放生会は、それから津々浦々に広まっていったのだよ。

・水に浮きながら寝ている鳥じゃないけれど、落ち着かず心ゆらゆら、今も私は独りぽっち。貴方のことを考えて夜も寝られないほどなのに、貴方はそんな私を可愛いと思ってもくれなくて、なんとも憎らしい

・その手で深みへ浜千鳥、通い馴れたる土手八丁、口八丁に乗せられて、沖の鷗(かもめ)の、二挺立ち、三挺(ちょう)立ち、

 

・素見(そけん)ぞめきは椋鳥(むくどり)の、群れつつ啄木鳥(きつつき)格子先、たたく水鶏(くいな)の口まめ鳥に、孔雀ぞめきて目白押し、見世清搔(みせさががき)のてんてつとん、さっさ押せ押せ、ええ。  

・そんな手口で深みへはまってしまった俺たち、大門まで八丁ある吉原土手を、手練手管に乗せられて、今日も駕籠に乗ってせっせと通う。お大尽さま達は2~3人の漕手を使って、早船の猪牙船〔ちょきぶね〕に乗って吉原へ。

・遊里をひやかしてあるくお登りさんたちは、大挙して訪れて、見世先に群れている、女を口説いたり、格子を叩いては女にしゃべりかけたり、押し合いへし合い。みんな結構おしゃれして集まって来てる。その内、女郎登場の知らせの三味線が鳴った。さぁさぁ、見世にあがろうよ。

○浜千鳥=江戸の庶民男性、沖の鴎=お大尽さまにたとえています。
○土手八丁:客が歩く隅田川入り口から吉原までの山谷堀の土手が八丁ありました。
○二挺立ち:二挺の(二人)艪で漕ぐ船足の速い船。特に,吉原通いの猪牙船(ちよきぶね)をいう。この時代、お大尽さまは隅田川を上って吉原へは猪牙で通ったのです。
○素見ぞめき:遊里をひやかしてうろつくこと
○ぞめく: 浮かれ騒ぐ。遊郭や夜店などを、ぞろぞろさわぎながら歩く。また、ひやかして歩く。
○素見:品物や遊女を見るだけで買わないこと。またその人。素見し(ひやかし)。
○椋鳥:椋鳥は群れて飛ぶ習性があり、江戸時代、農閑期になると江戸近郊から江戸に仕事を求めて大挙して訪れては去っていく人々を椋鳥にたとえ、転じて田舎から訪れたお登りさん。
○啄木鳥:啄木鳥は木を嘴で叩いて(ドラミング)求愛するそうです。おそらく見世先の格子から、中の遊女に求愛するさまと重ねているのでしょう。
○水鶏:夏、水辺の蘆の茂みや水田などに隠れて、キョッキョッキョキョと高音で鳴く鳥。古来、歌に多く詠まれてきたのは緋水鶏で、その鳴声が、戸を叩くようだとして「水鶏叩く」といわれる。
○見世清掻き:江戸吉原の遊郭で、遊女が店先に出て並ぶ合図に弾いた、歌を伴わない三味線。

○まめ鳥:イカルの別名。木の実を嘴で廻したり転がしたりするため古くは「マメマワシ」や「マメコロガシ」、木の実を好んで食べるため「まめうまし」、「豆割り」などと呼ばれた。
*ちなみに「ひやかし・素見し」は、「浅草紙」という再生紙を作っている紙鋤き職人が、紙の原材料を煮て冷めるのを待っている間、吉原へ暇つぶしにいって、遊ぶ気もないのにぶらぶらしていたことが語源となっています。「紙洗橋」というのが現在でも残っています。

・馴れし廓の袖の香に、見ぬようで見るようで、客は扇の垣根より、初心可愛ゆく前渡り、

 ・さあ来たまた来た障りじゃないか、またお障りか、お腰の物も合点か、編笠もそこに置け、二階座敷は右か左か、奥座敷でござりやす、はや盃持ってきた、とこえ静かにおいでなさんしたかえ、という声にぞっとした、しんぞ貴様は寝ても覚めても忘られぬ、笑止気の毒またかけさんす、何なかけるもんだえ。

・客は扇で顔を覆って、扇の骨の隙間から見るような見ないようなそぶりで、どうやら初心らしいその様子が可愛い。

・客はどうやら武士のようで、腰の物を預け、体面上かぶっていた編笠も置いていきます。遊女と遊ぶのは妓楼の二階、案内に従って行くと早くも酒が出てきます。そしてそこに、「いらっしゃったのね」と遊女の声がしてびっくり。続いては客と遊女のやり取りで、「本当にお前のことは、寝ても覚めても忘れられない」「それはお気の毒。心にもないことを言ってこちらの気を弄らしゃんす」「何を言うか、本当だよ」と

・そうした黄菊と白菊の、

 ・同じ勤めのその中に、ほかの客衆は捨て小舟、流れもあえぬ紅葉ばの、

  ・目立つ芙蓉の分け隔て、ただ撫子と神かけて、いつか廓を離れて紫苑、そうした心の鬼百合と、思えば万年青、気も石竹になるわいな、未は姫百合男郎花、その楽しみも薄紅葉、さりとはつれない胴欲と、

 ・垣根にまとう朝顔の、離れ難なき風情なり。 

・こなさんがそんな気とは知らなかったわいな。
・同じ座敷勤めでも他の客は貴方と別、他の人は一夜限り、まるでわたしゃは捨て小舟のよう、行き場なくせき止められている紅葉の葉のよう。葉                

・美人の目立つ人気女郎だけは別扱い。神さまに祈るわいな、いつか廓をでて一緒になりたいと。そんな風に必死に思う心、考えれば考えるほど気もせいてしまうと言えば、主さんはそんな楽しみは望み薄なんてつれないことをいうの、ひどいわえ。
・そういって、女郎は朝顔のように主さんにまとわりついて離れがたい様子

○撫子:江戸時代の園芸ブームで人気がでた。「撫でし子」と語意が通じることから、しばしば子どもや女性にたとえられ、和歌などに多く参照
○芙蓉:芙蓉は美人のたとえ。「芙蓉のかんばせ」「芙蓉のまなじり」などという言葉がある。

・一薫(ひとた)きくゆる名香(仲人)の、その接ぎ木こそ縁のはし、そっちのしようが憎いゆえ、

・隣り座敷の三味線に、合わす悪洒落まさなごと。

・香木を継ぎ加えて、ひとたき焚いた伽羅の香が痴話喧嘩の仲直りのきっかけになる。(二人の会話)『主さんのやり口が、あんまり憎たらしいから、わたしゃ・・・』

・『なんだえ、隣座敷から聞こえてくる三味線に合わせて、ちょっと悪ふざけしただけだよう』

・女郎の誠と玉子の四角、あれば晦日に月も出る、

 ・君の寝姿窓から見れば、牡丹芍薬百合の花、

・女郎に誠実さがあったり、四角い玉子があるのなら、晦日新月)にも月がでるはずだ

・君の寝姿を窓から見ると綺麗だな。

・つけ差しは、濃茶かえ、ええ腹が立つやら、憎いやら、どうしょうこうしょう、憎む鳥鐘、暁の明星が、西へちろり東へつろり、ちろりちろりとする時は、

・内の首尾は不首尾となって、親父は渋面嚊は御免、渋面御免に睨みつけられ、去のうよ戻ろうよと、いうては小腰に取りついて、ならぬぞ、去なしゃんせぬ、この頃のしなし振り、憎いおさんがあるわいな。 

・返杯が濃茶なの?ってことはもう朝で帰らなくちゃいけないんだね。腹立たしいなぁ。朝が来たことを告げる鳥や鐘はホント憎いよ。
夜明けの明星が西の空、東の空でちらちらする時は、

・どうやら遊興が過ぎて両親の不興を買ったようです。ということで金を使い過ぎないうちに家に戻ろうとしますが、金づるは帰さないのが遊女の手管。「行っちゃイヤ」とすがりつきます。

○付け差し:口を付けた盃で返盃すること。もう朝だから、お酒ではなく濃茶が入っている。

○憎む鳥鐘:朝になったことを告げる鳥や鐘は憎まれるため

文の便りになあ、今宵ごんすとその噂、いつの紋日(もんび)も主さんの、野暮な事じゃが比翼紋(ひよくもん)、離れぬ仲じゃとしょんがえ、染まる縁しの面白や。

『今日主さんが来てくださると手紙をくれて、廓はその噂でもちきり。紋日には必ずいつも、野暮は承知でお前の紋を使って、比翼紋の着物や夜具を作り、二人は離れられない仲だと見せつけてやるわいな。ああもっともだ。『互いに染り切ったゆかりの色の面白さときたら』

紋日(もんび)物日ともいう。 江戸時代、官許の遊郭で、五節句などの特に定めた。 この遊女は客をとらねばならず、客も揚げ代をはずむ習慣であった。正月(元日を除く)や節分、八朔など吉原の行事日のこと。紋日には吉原全体でイベントが行われるばかりでなく、遊女も特別な衣装を着るなどしました(衣装代は大概遊女の自腹)。年間通しての紋日の数は時代によって変わり、1797年以降は年間18日と決められたのですが、《吉原雀》が初演された1768年には80日以上紋日があったようです。紋日には揚代や食事代などが全て倍額になったと伝えられ、遊女は必ず客を取らなければならなかったようです。客がつかなかった遊女は自分の揚代を自腹で払う「身揚り」をしなければなりませんでした。

比翼紋(ひよくもん)中国の伝説「比翼の鳥」から来たものです。白居易(はくきょい)の長恨歌(ちょうごんか)にも詠まれており、男女が仲むつましい様を表します。恋人同士が互いの紋を組み合わせてつけたペア紋で、並び紋、二つ紋ともいいます。江戸中期、互いの小袖にこっそりつけていたり、婚礼布団につけていたり庶民の間で流行しました。

○しょんがえ:調子をとるために差し入れる囃子詞 (はやしことば) 。しょんがい。しょんがいな。

げに花ならば初桜、月ならば十三夜、いづれ劣らぬ粋同士の、あなたへ言い抜けこなたの伊達、いづれ丸かれ候(そうろう)かしく。

「なるほどなぁ、花を見るなら咲き初め、月を愛でるなら十三夜だね」(ここはくどく女郎に男が答えている。廓遊び、客と女が馴染みきってしまうより、親しくなり始めの頃がワクワクして楽しいものだよと言い返している。)
「いつかはこの仲が、丸く収まりますように。かしこ。」(最初が「文のたより・・・」で始まったので、ここは女性が手紙で使う結語を用いて終えている。)

 

【吉 原 雀 】  解 説 2

 <曲の構成と聞き所>
放生会のいわれが重々しく語られる
② <聞き所1>転調し、一転して明るく華やかな吉原の風景が語られる。客を「鳥」にたとえた「鳥尽くし」。

③ 再び転調し、花魁の出と始めて登楼するうぶな客の様子がとぼけた音調で描かれる。
口説き。遊女が馴染みの客にいつか身請けをして欲しいという心情をしっとりと唄う。「花尽くし」の歌詞。
⑤ <聞き所2>踊り地から始まり、座敷の楽しい様子が演奏される。三味線は、超絶技巧が必要なところ。
⑥ 女郎をユーモラスに唄ったパート
⑦ 馴染みの客が登楼するときの女の嬉しい心情と男のふざけた受け答えで楽しく締めくくられる

 ◎ 「吉原雀」の本名題は『教草吉原雀』で、『教草:おしえぐさ』とは吉原の遊びはハマると、かくも大変だから程々にするように』という教訓のことである」という解釈されているようです。「吉原雀」とは、葦の原っぱに住む「ヨシキリ」という鳥の別名。大きな声で騒がしく鳴くことから、後に吉原遊郭の内情に詳しい人や、吉原遊郭をただ冷かして歩く素見の客を指す言葉になりました。

◎ ・初めから放生会までが、それ以降の唄と比べて、なぜか重々しくて、違和感さえ感じますが、その理由は元々この曲が歌舞伎狂言中の所作事であったことにあります。初演は明和5年(1768年)11月、江戸市村座の顔見世狂言『男山弓勢競(おとこやまゆんぜいくらべ)』の二番目大切りの所作事です。八幡太郎義家(源義家)奥州攻めの物語で、放生会の夜、義家は(鳥売り小笹の左次平衛)に身をやつして鳥を売りに吉原にやって来て、同じく鳥売りの女(阿倍宗任の妻・善知鳥・化けた鷹の精)と踊りながら互いの素性を探り合うというものです。そのため、最初武張った重々しい調子で放生会の始まりのいわれが語られることになります。

・現代ではこの設定による演出は残っておらず、吉原は仲の町、桜のもとで、男女の鳥売りが踊る、というだけの設定になっています。

◎ ・放生会(ほうじょうえ)とは捕獲した魚や鳥獣を野に放し、殺生を戒める宗教儀式です。仏教の戒律である「殺生戒」を元とし、日本では神仏習合によって神道にも取り入れられました。この起源については諸説あり、似たような行為は養老4(720)年よりずっと昔から行われていたようです。はっきりとしている点は、徳川将軍家や有力大名家が行っていた伝統猟で、これが明治時代以降もずーと皇室に受け継がれてきています。

・ちなみに、現在,宮内庁が管理している鴨場は,埼玉県越谷市の「埼玉鴨場」と千葉県市川市の「新浜鴨場」の2か所があり,両鴨場のそれぞれ約12,000平方メートルの元溜(もとだまり)と呼ばれる池には,毎年1万羽を超える野鴨などの渡り鳥が越冬のため飛来しています。鴨場は,鴨の狩猟期間(11月中旬から翌年2月中旬)に,天皇陛下の思召しにより、日本に駐在する外交官や賓客接遇の場としても用いられております。鳥を傷つけない伝統的鴨猟を紹介し、それを通じて日本の自然・伝統・文化・歴史を感じてもらう絶好の機会となっています。

・訓練したアヒルを使い鴨を猟者が潜む直線的な細い水路に誘導し、飛び立つ瞬間を網で捕獲します。水路で飛翔方向が限定されるため、網を振るだけで子供でも容易に捕獲が可能です。その後捕獲した鴨は国際鳥類標識調査に協力するために種類・性別などを記録し、標識(足環)をつけ放鳥されます。

◎ 様々な地域から集められていた吉原の遊女たちは、方言のままでは意思の疎通が難しかったということもあり、「廓言葉」と呼ばれる独自の言葉を話していました。「~でありんす(=であります、です)」など京風の独特な語尾を特徴としたため「ありんす言葉」とも呼ばれました。細かいところが遊女屋ごとに少しずつ違っていたそうで、他にも「~おす」「~ざんす(ざます)」などと話されていました。