預金を取られる、ドコモ口座事件

銀行口座を持っていて、インターネットバンキングを利用しない人もいる。ネットのセキュリティを信用できないためだ。一番安全なのは、自分の口座とネットを繋がないことだ。しかし今回起きたドコモ口座事件で、知らないうちに自分の口座がネットに繋がれていることが判明した。

他人が自分名義のドコモ口座、PayPay口座などを作り、口座振替サービスで自分の口座を指定すると、自分の口座から自由に引き出されてしまう、これが事件になった。口座番号、氏名、誕生日・キャッシュカード暗証番号 これがあれば自由に引き出されてしまう。ニセキャッシュカードを作る手間が省けている。

キャッシュカード暗証番号以外は、かなり容易に、他人に知られてしまう情報である。会員登録などをしたサイトから情報流出が起きれば、ひとたまりもない。

銀行が、利用者の承諾なしに、口座をインターネットバンキングできるようにしてしまっているのが、一番問題。

ゴマダラカミキリムシの単為生殖?

日本のカミキリムシの中には単為生殖する種類がみつかっています。ゴキブリでは単為生殖が実験による観察で証明されました。つまり3匹以上のメスだけを隔離して飼育していると、子供を生んで増殖したという結果です。

私の友人にバラ好きの人がいて、100本以上のバラを育てています。大敵がゴマダラカミキリムシです。毎年ゴマダラカミキリムシを捕獲していますが、昨年は40匹以上いたそうです。彼女は捕まえたカミキリムシを虫カゴにいれて飼育し、フェロモンの効果でカミキリムシをおびき寄せて捕獲しています。今年は虫カゴにいれておくのは大きなメス2匹だけにし、ほかは殺して捨てていた所、このメス同士が交尾をはじめました。単為生殖の可能性がありそうです。このあとにも同じ現象が起きました。

勿論バラを枯らしてまで確かめる気はないので、このメスたちも殺したそうです。

Chromebookの魅力

新型コロナウイルス、これは危なそう、大変な事態に世界中がなりそうと、2月23日ごろから危機感を感じました。そこでネットで情報収集すると、質の高い、タイムリーな情報は、すべてYoutubeにありました。

今やBLOGは時代遅れで、動画発信が進んで、「個人TV放送局」の時代になったことを痛感しました。

遅れているでしょう!

Youtubeを見るとき、Chromebook,Chromeboxが便利です。

Windows10が嫌で、試しに買ったこれらが、とても役立っています。

連獅子(正)

【連獅子のあらすじ】                         

  1. 能舞台を模した松羽目の舞台に、二人の狂言師右近と左近が現れ、二人は厳かに舞い始める。舞は文殊菩薩の霊地である清涼山にかかる石橋を描写し、手にした手獅子の毛と衣で親子の獅子を模して獅子の子落としの伝承を再現する。
  2. 二人が舞台から下がると次の場は間あい狂言となる。清涼山の麓、頂きを目指す二人の修行僧が出会い、最初は旅は道連れと和やかに打ち解けるが、互いの宗門がライバルたる法華宗念仏宗だと判明すると、どちらの宗旨が優れているのかと激しい宗派間論争に発展する。法華宗の僧が題目南無妙法蓮華経」を団扇太鼓を叩きながら連呼すると、念仏宗の僧はすかさず叩き鉦(かね)を打って「南無阿弥陀仏」を連呼して応じる。題目と念仏の応酬のうち、いつの間にか双方が取り違え入れ替わって唱える事態となり互いに慌てるコミカルな展開を呈する。周囲ではにわかに暴風が吹き付け不気味な雰囲気となり、二人の僧は慌てて逃げ、舞台から去る。
  3. 大薩摩(おおさつま:物語を語る浄瑠璃の一種)が石橋の様子を描写し、悠然と親子獅子の精が登場する。親子は牡丹の花の匂いを嗅ぎ、「狂い」と呼ばれる激しい動きを見せる。そして牡丹の枝を手に、芳しく咲く牡丹の花、それに戯れる獅子の様などを描き、親子の息の合った眼目の毛振り(けぶり)となる。長い毛を豪快に振り、獅子の座について幕。

間あい狂言 後半の衣装替えの間に宗論しゅうろんと呼ばれるユーモラスな間(あい)狂言が入ります。
南無妙法蓮華経 VS 南無阿弥陀仏の話です。

修業のために清涼山へと向かう法華僧と浄土宗の僧が道連れになり、清涼山を登りはじめる。最初は和やかに話をしていたのが、お互いの宗旨を知ると、宗旨の優劣争いに発展。法華経の功徳の素晴らしさ、念仏の御利益のありがたさをそれぞれが身振り手振りで語る。続いて法華宗の僧が団扇太鼓を叩いてお題目「南無妙法蓮華経」を、浄土宗の僧が叩き鉦(かね)を打って念仏「南無阿弥陀仏」を繰り返し唱えるうちに…。いつの間にか、題目と念仏を取り違えるという結果に。折から吹きつける暴風に二人は慌てて逃げていく。

【胡蝶の舞】: 後半の衣装替えの間に入る間狂言のほかに、羯鼓かっこ太鼓を打ちながら「世の中に 絶えて花香のなかりせば 我はいづくに 宿るべき~」で始まる胡蝶の踊りが入るケースもあります。

 「勇ましい親子の獅子の精」                                大薩摩(物語を語る浄瑠璃の一種)が石橋の様子を描写。先に白い頭の親獅子が悠然と出てきて、後に赤い頭の子獅子が続きますが、子獅子は花道七三のあたりで立ち止まると、そのままの姿勢を保ちながら、すごい勢いでいったん揚幕の方に引っ込みます(この辺は鏡獅子と同じ)。そして再び出てきて舞台に進み、親子揃っての毛振りとなります。能にならって「後(のち)シテ」と言う。親子は牡丹の花の匂いをかぎ、やがて狂いと呼ばれる激しい動きを見せる。そして牡丹の枝を手に、芳しく咲く牡丹の花、それに戯れる獅子の様などを描き、親子の息の合った眼目の毛振りとなる。長い毛を豪快に振り、獅子の座について幕となる。

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~~~長唄 歌詞~~~

連獅子(正)        明治五年(1872)七月    作曲 三代目 杵屋正次郎 

それ牡丹は百花の王にして 獅子は百獣の長とかや 
桃李にまさる牡丹花の 今を盛りに咲き満ちて 虎豹に劣らぬ連獅子の 戯れ遊ぶ石の橋 
そもそもこれは尊くも 文殊菩薩のおはします その名も高き清涼山 
峨々たる巌に渡せるは 人の工にあらずして おのれと此処に現はれし 神変不思議の石橋は 
雨後に映ずる虹に似て 虚空を渡るが如くなり

峰を仰げば千丈の 雲より落つる瀧の糸 谷を望めば千尋なる 底は何処と白波や 
巌に眠る荒獅子の 猛き心も牡丹花の 露を慕うて舞ひ遊ぶ 【胡蝶に心やはらぎて 
花に顕れ葉に隠れ 追ひつ追はれつ余念なく 風に散り行く花びらの ひらりひらひら 
翼を追うて 共に狂ふぞ面白き】

(時しも笙笛琴箜篌の 妙なる調べ影向も 今いく程によも過ぎじ) 
かかる険阻の巌頭より 強臆ためす親獅子の 恵みも深き谷間へ 蹴落す子獅子はころころころ 
落つると見えしが身を翻し 爪を蹴たてて駈登るを 又突き落し突き落され 
爪のたてども嵐吹く 木蔭にしばし休らひぬ 登り得ざるは臆せしか あら育てつるかひなやと 
望む谷間は雲霧に それともわかぬ 八十瀬川 水にうつれる面影を 
見るより子獅子は勇み立ち 翼なけれど飛び上り 数丈の岩を難なくも 駈上りたる勢ひは 
目覚しくも亦勇ましし  

(それ清涼山の石橋は 人の渡れる橋ならず 法の奇特のおのずから 出現なしたる橋なればしばらく待たせ給えや 影向の時節も 今いく程によも過ぎじ)

 獅子団乱旋の舞楽のみきん 獅子団乱旋の舞楽のみきん 牡丹の花ぶさ匂ひ満ちみち 
大きんりきんの獅子頭 打てや囃せや牡丹芳 牡丹芳 黄金の蕊現れて 花に戯れ枝に臥し転び 
実にも上なき獅子王の勢ひ (靡かぬ草木もなき時なれや 
万歳千秋と舞ひ納め 万歳千秋と舞ひ納)獅子の座にこそ直りけれ

 

舞踊の場合の構成は、一部が省略されて、以下のようになります

それ牡丹は百花の王にして 獅子は百獣の長とかや 桃李に優る牡丹花の 今を盛りに咲き満ちて
虎豹に劣らぬ連獅子の 戯れ遊ぶ石の橋 そもそもこれは尊くも 文殊菩薩のおはします
その名も高き清涼山 峨々たる巌に渡せるは 人の工にあらずして おのれと此処に現はれし
神変不思議の石橋は 雨後に映ずる虹に似て 虚空を渡るが如くなり 

峰を仰げば千丈の 雲より落つる瀧の糸 谷を望めば千尋なる 底は何処と白波や 
巌に眠る荒獅子の 猛き心も牡丹花の 露を慕うて舞ひ遊ぶ

 

かかる険阻の巌頭より 強臆ためす親獅子の 恵みも深き谷間へ 蹴落す子獅子はころころころ 
落つると見えしが身を翻し 爪を蹴たてて駈登るを 又突き落し突き落され 
爪のたてども嵐吹く 木蔭にしばし休らひぬ 登り得ざるは臆せしか あら育てつるかひなやと 
望む谷間は雲霧に それともわかぬ 八十瀬川 水にうつれる面影を 見るより子獅子は勇み立ち
翼なけれど飛び上り 数丈の岩を難なくも 駈上りたる勢ひは 目覚しくも亦勇ましし

 

【胡蝶に心やはらぎて 花に顕れ葉に隠れ 追ひつ追はれつ余念なく 風に散り行く花びらの ひらり ひらりひらひら 翼を追うて 共に狂ふぞ面白き】


獅子団乱旋の舞楽のみきん 獅子団乱旋の舞楽のみきん 牡丹の花ぶさ匂ひ満ちみち 
大きんりきんの獅子頭 打てや囃せや牡丹芳 牡丹芳 黄金の蕊現れて 花に戯れ枝に臥し転び 
実にも上なき獅子王の勢ひ 獅子の座にこそ直りけれ

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連獅子(勝)       文久元年(1861)五月  作詞 河竹黙阿弥   作曲 二代目 杵屋勝三郎  

それ牡丹は百花の王にして 獅子は百獣の長とかや 
桃李にまさる牡丹花の 今を盛りに咲き満ちて 虎豹に劣らぬ連獅子の 戯れ遊ぶ石の橋 
これぞ文殊のおはします その名も高き清涼山 
峰を仰げば千丈の みなぎる瀧は雲より落ち 谷を望めば千尋の底 
流れに響く松の風 見渡す橋は夕陽の 雨後に映ずる虹に似て 虚空を渡るがごとくなり 
かかる険阻の山頭より 強臆ためす親獅子の 恵みも深き谷間へ 蹴落す子獅子は転ころころ 
落つると見えしが身を翻し 爪を蹴たてて駈登るを 又突き落し突き落す 猛き心の荒獅子も 
二上り〉 
牡丹の花に舞ひあそぶ 胡蝶に心やはらぎて 花に顕はれ葉に隠れ 
追ひつ追はれつ余念なく 風に散り行く花びらの ひらりひらひら 翼を慕ひ 共に狂ふぞ面白き
〈本調子〉 
折から笙笛琴箜篌の 妙なる調べ 舞ひの袖
獅子団乱旋の舞楽のみぎん 獅子団乱旋の舞楽のみぎん 牡丹の花ぶさ香ひ満ちみち 
大巾利巾の獅子頭 打てや囃せや牡丹芳 牡丹芳 
黄金の蘂あらはれて 花に戯れ枝に臥しまろび 
実にも上なき獅子王の勢ひ 靡かぬ草木もなき時なれや 
万歳千秋と舞ひ納め 万歳千秋と舞ひをさめ 獅子の座にこそなほりけれ

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【豆知識1『正連』と『勝連』】  

連獅子は能の「石橋しゃっきょう」から作られたもので、『正治郎連獅子』略して『正連』は、『連獅子』としての先行曲である『勝連』を3代目杵屋正治郎が改作し、劇場での歌舞伎舞踊により適した曲として仕立てたものです。作詞者は『勝連』と同じく河竹黙阿弥と、作曲当時東京村山座の立作者であった竹柴金作(後の3世河竹新七)とされます。といっても歌詞も中身も『勝連』に少し手を加えただけで大同小異です。

・話の中身は同じでも、『勝連』と『正連』は全く違う場所で演奏されてきた曲でした。どちらも最初は舞踊曲として作られたのですが、『勝連』は座敷での素踊りで出された演目で、現在では舞踊の地としては殆ど使われず、ひたすらその音楽性を楽しむ演奏会用の演目として好まれています。

 ・対して『正連』は村山座(市村座)で出された芝居『浪花潟入江大塩(なにわがたいりえのおおしお)』の一番目四幕目(注4)の舞踊として初演され、その時は5代目坂東彦三郎(1832‐1877)、2代目澤村訥升(後の4代目助高屋高助(没後6世澤村宗十郎を追贈)・1838‐86)という、当時を代表する歌舞伎俳優が踊りました。以来ずっと舞踊『連獅子』といえば『正連』と相場が決まり、演奏会でこの曲を鑑賞する機会はあまりありませんでした。

・『正連』が舞踊曲として大事にされてきた曲でありますが、この曲の演奏が舞踊の場合は、その構成が全く変わってしまいます。(参照:本曲歌詞の下段部分)
                        

【能・石橋】しゃっきょう                        

連獅子は能の「石橋」から作られたもので、「石橋」は能の五番目物。入唐(にっとう)した寂昭(じゃくしょう)法師(ワキ)は清涼山に至り、石橋を目前にする。この世から文殊菩薩の浄土に架かる橋である。現れた山の童子(前シテ。老翁(おきな)の姿にも)は、橋を渡ろうとする寂昭に、名ある高僧でも難行苦行の末でなければ渡れなかったと止め、自然が出現させた石橋の神秘を物語る。そして奇跡を予言して消える。仙人(間あい狂言)が出て橋の由来を述べ、獅子の出現を予告する。前シテをツレに扱い、間狂言を省く流儀もある。

・獅子(後シテ)が出て、牡丹の花に戯れつつ豪快に舞い、万歳千秋をことほぐ。獅子の出を囃す「乱序(らんじょ)」の囃子も、豪壮な中に深山の静寂の露のしたたりを表現する譜が加わるなど、特色がある。「獅子」の舞は能のエネルギーの端的な主張であり、技術的な秘曲で、伝承が途絶えたため江戸時代に苦心のすえに復興されたもの。赤と白の夫婦獅子、あるいは親子獅子の出る演出のバリエーションが多く、前シテを省いて、ワキの登場のあと、すぐに獅子が出る略式上演も広く行われている。

【豆知識2】

山びこ: 獅子が出てくる前の演奏で、しーんと静まり返った中を、鼓がポン。しばらく間があって太鼓がコン。・・・ポン・・・コン・・・。これって、どうやら山びこを表現しているらしいです。ぜひ耳を済ませて聞いてみて下さい。

 文殊師利菩薩: 智慧の仏さまです。梵語ではマンジュシュリー。釈迦三尊像普賢菩薩さんと一緒にお釈迦さまの脇を固めています。文殊さんは獅子に乗っておられます。石橋の向こうは文殊菩薩さまの浄土。美しい花びらが降りしきり、良い香りが漂い、いつも笙、笛、琴、箜篌の音が雲の隙間から聞こえてきています。

 石橋: この石橋は人工の物ではなく、自然に現れて架かっている石の橋なのです。その表面はわずか30センチ程、しかも滑りやすい苔で覆われており、長さは9メートルあまり。そもそも、この世界が開け生まれて以来、雨や露を降らせてこちらへとかける橋、虹によって神々はこの地へ渡られます。それを天の浮橋ともいい、それが橋のはじまりです。

・能では石橋があるのはインドの清涼山ということになっていますが、本来、清涼山は中国の山西省にあり、一般的には五台山と呼ばれます。台状の五つの峰からなる五台山は文殊菩薩の聖地とされ、峨眉(がび)山、天台山とともに中国仏教の三大霊場のひとつ。最盛期には300以上、今も47の寺院が建ち、元代(13~14世紀)以降はチベット仏教の聖地ともなって、2009 年、ユネスコ世界遺産に登録されました。

獅子と牡丹の関係: 連獅子の衣装や小道具には牡丹の花がよく用いられています。古くから、獅子と牡丹は縁起のよい組み合わせとされ、屏風や襖絵に使われる事も多いのですが、これには理由があります。百獣の王といわれる獅子にも弱みはあって、身体に寄生する虫によってその命をも脅かされることがあります。これが"獅子身中の虫"といわれるものです。どんなに大きく力のあるものでも、内部の裏切りから身を滅ぼすことにもなりかねない、という意味で使われますが、本来は仏典から出た言葉です。そしてこの虫を退治する薬が、牡丹の花に溜まる夜露。獅子はこれを浴びるために牡丹に戯れているわけです。

 毛振り: 一部にはシャンプーダンスとも言われており、連獅子が頭の毛をブンブンと勇猛に振り回す所作は、「身体についた虫が痒くてそれらを払っている様」を表わすとされているそうですが、この場合の虫は「邪気」の意味で「邪気を払う為の所作」だそうで、獅子の勇壮さを力強く表現しています。毛振りは毛を顔の前へ垂らし、左右に振るのを「髪洗い」、左右の床にたたきつけるのを「菖蒲打ち」、腰を軸にして振り廻すのを「巴ともえ」というふうに、振り方にそれぞれ名前がついています。獅子の毛は、ヤクという動物の毛を白や赤に染めたものです。ヤクはチベットの高地が原産のウシの仲間です。

 獅子團乱旋の舞楽の砌~(ししとらでんのぶがくのみぎん)の現代訳     

獅子團乱旋舞楽。獅子團乱旋の舞楽の砌。牡丹の英匂ひ充ち満ち。大筋力獅子頭。打てや囃せや牡丹芳。牡丹芳。黄金の蘂現れて。花に戯れ枝に伏し轉び。げにも上なき獅子王の勢ひ。靡かぬ草木もなき時なれや。萬歳千秋と舞ひ納め。萬歳千秋と舞ひ納めて。獅子の座にこそ直りけれ。

獅子・団乱旋の舞楽の曲が鳴り響く時。それらが演奏される時。香り高く咲く牡丹は、その芳香であたりを充たす。獅子は力強く頭を打ち振るう。獅子が動くと空気が動き、牡丹の香りもまた広がる。さあ音楽よ、よりいっそう盛り上げるがよい! この芳しき牡丹の花よ。牡丹のつぼみが開いて中より黄金の髄が姿をあらわす。獅子は牡丹の花・枝の上に伏し転がり牡丹の花々と戯れる。これぞまさしく、百獣の王たる獅子の勢い。その力に靡かぬ草木とてない今、このめでたさが続くように、万歳千秋と太平の世が続くようにと舞い納め、獅子は文殊菩薩の  元へと帰っていった。

* 獅子團乱旋ししとらでん: 「獅子」も「團乱旋」も舞楽で、唐から渡来した盤渉(ばんしき)調の「獅子」と、壱越調の「団乱旋」の二つの秘曲をさす。 

砌:みぎん:みぎりの音変化(例:寒さのみぎり御身お大切に)

大筋力だいきんりきん:という言葉は、謡曲集などでは(甚だ強い力)と解される。臨済宗柴山全慶師著『越後獅子禅話』春秋社刊によれば、(抜粋)これは『体金離金』と書かなければならないと存じます。(中略)華厳哲学に関する『十住玄義』という書物に出てくる『金獅子のたとえ』から来ているのであります…。柴山師の解説によれば、『いっさいの妄執を払って、この世を自由無碍に生きる見事な境地を、獅子王の威神力にたとえ、『体金離金の獅子頭、打てや囃せや牡丹芳』と形容したもの…と釈される。平たく言えば、物事を形や現象にとらわれず『体金』を実質としてとらえ、さらに、そこから離れて本質を見る生き方『離金』という道理らしいのだ。

牡丹芳: 詩人・白居易(722~847)の唄で、丹可愛やとか、牡丹よきかなといった感嘆詞。

 

 

 




 

 

 

二人椀久(ににんわんきゅう)

二人椀久(ににんわんきゅう) 安永三年(1774)五月  作曲 初代 錦屋金蔵 

解 説

 ・「二人椀久」は本名題(ほんなだい)「其面影二人椀久(その おもかげ ににん わんきゅう)」と、いう踊りで、作詞者不詳、作曲・初代 錦屋金蔵です。安永3年(1774)江戸・市村座において9代目市村羽左衛門と瀬川富三郎(3代目瀬川菊之丞)が初演しました。

 あらすじ:この唄の話は、大坂の豪商・椀屋久兵衛/久右衛門(わんや きゅうべえ/きゅううえもん。椀久)の話で、実際にあった事件を下敷きに作られています。椀久は新町の花魁・松山太夫松屋)にいれあげて、放蕩の限りを尽く、坂中の評判となりました。たまりかねた親族が椀久を座敷牢に軟禁し、更には髪(髻・もとどり)を切ってしまいます。松山を恋するあまり精神に異常を来した椀久は、隙を見て脱走します。羽織に着流しザンバラ髪の異様な風体で待ちをさまよい歩き、松山の幻想とたわむれながら死んでゆくという物語です。

1.場面はどことも知れぬ、松の大木のある海辺近く。月がうっすらと照らすだけの夜道を、物狂いになった椀久が、ふらふらと彷徨しているところから始まります。松山の事を想うあまり、椀久の前に松山の幻影が現れます。踊りでは、その時に椀久が着ていた羽織を松山(幻)に着せる場面があるのですが、ここで椀久が二人いるように見えることから、二人椀久と名付けられました。

2.親の意見も耳に入らず、松山に逢いたいと身を焦がして祈るうちに、まどろんでしまいます。すると桜が咲き、どこからともなく松山が姿を現し、椀久に語りかけます。松山は今をときめく身でも、遊女の身は籠の鳥と同じように自由にできず、貴方と逢えないのが恨めしいと切ない胸中を訴えます。そして椀久がかつて着ていた羽織を身に着け、片袖を椀久だと思って眺めているのだと言います。

3.場面は更に明るくなり二人はかつての楽しい思い出を再現します。仲良く酒を酌み交わす様や、椀久が「闇夜が好きだ」と言えば、松山は「月夜の方が良い」と拗ねたりします。やがて、伊勢物語にある在原業平と紀有常の娘の有名な恋歌を、二人でしっとりと舞います。思いが高まるにつれて、眼目の二人のテンポのよい踊りになります。かざした手をヒラヒラとさせながら、互いに前後左右に入れ替わりリズミカルに展開する浮き立つシーンが続きます。しばし幻の松山とたわむれた後、この曲のハイライト、吉原での遊びを描いた「お茶の口切~」が始まります。ここから曲は一辺して明るくなります。軽快な三味線に乗って踊り手も吉原の様子を踊り上げます。

4.途中、謡曲「筒井筒」が出てきたり、コチャエ節(コチャ節ともいう)のひとふしが出てきたり、流行歌「按摩けんぴき・按摩の客寄せ歌)」などが挿入されたりします。そのあたりはお遊びとして、昔の人は軽いノリで楽しんでいたようです。

5.華やかな廓遊びの模様を描くうちに、松山の姿が次第に遠のきます。椀久は手を伸ばして松山を腕に抱こうとするが、手は空を切り、松山の姿は掻き消えていくのです。後には松風の音が聞こえるばかり。一人残された久兵衛は寂しさにうちひしがれ、倒れ伏すのでした。踊りではここで、一工夫がなされています。舞台で松山が大きな松の枝に、自分の着物をかける場面があります。松山が消えてから、椀久がその着物を手にとってあちこち探しまわるのですが、その松の後ろを通って、出てきたときには、その松山の着物が椀久の羽織(二人椀久の由来の羽織)に変わっているのです。

~~~~~~~歌 詞 ~~~~~~~

長唄 二人椀久(ににんわんきゅう) 安永三年(1774)五月  作曲 初代 錦屋金蔵

二上り〉 
たどり行く 今は心も乱れ候 
末の松山思ひの種よ あのや椀久は これさこれさ うちこんだ 兎角恋路の濡衣
〈三下り〉 
干さぬ涙のしっぽりと 身に染々と可愛ゆさの それが嵩じた物狂ひ
とても濡れたるや 身なりやこそ 親の意見もわざくれと 兎角耳には入相の 
鐘に合図の廓へ 行こやれ行こやれ さっさゆこやれ 昨日は今日の昔なり 
坊様坊様 ちとたしなまんせ 墨の衣に身は染みもせで 恋に焦るる身は浮舟の 
寄る辺定めぬ世のうたかたや 由縁法師の其一筋に 智恵も器量も皆淡雪と 消ゆるばかりの物思ひ 
独り焦るる一人ごと 恋しき人に逢はせて見や 兎角心の遣瀬なき 
身の果何と浅ましやと 暫しまどろむ手枕は 此頃見する現なり
[合方]
行く水に 映れば変る飛鳥川 流れの里に昨日まで はて 勿体つけたえ 
誓文ほんに全盛も 我は廓を放し鳥 籠は恨めし 心くどくどあくせくと 恋しき人を松山に 
やれ末かけて かいどりしゃんと しゃんしゃんともしほらしく 君が定紋 伊達羽織 
男なりけり又女子なり 片袖主と眺めやる 思ひざしなら 武蔵野でなりと 何ぢゃ織部の薄杯を 
よいさ しょうがえ 武蔵野でなりと 何ぢゃ織部の薄杯を よいさ しょうがえ 
恋に弱身を見せまじと ぴんと拗ねては背向けて くねれる花と出て見れば 女心の強からで 
跡より恋の せめ来れば 小袖にひたと抱き付 申し椀久さん (さってもてっきりお一人さま)
[鼓唄]
ふられず帰る仕合の 松にはあらぬ太夫が袖 月の漏るより闇がよい 
いいや いやいや こちゃ闇よりも月がよい 御前もさうかと寄添へば 月がよいとの言草に 
粋な心で腹が立つわいな (もうこれからがくぜつのだん) 
仔細らしげに坐を打って 袖尺着尺衣紋坂 うひかうむりの投頭巾 語るも昔男山
[謡] 
筒井筒 井筒にかけし麿がたけ 老いにけらしな 妹見ざる間にと 詠みて送りける程に 
其時女も 比べこし 振分髪も肩過ぎぬ 君ならずして誰かあぐべきと 互に詠みしゆゑなれば 
筒井筒の女とも 聞えしは有常が 娘の古き名なるべし(ああ古い、古い女郎買もしほがからうなった) 
[太鼓唄]
お茶の口切 沸らす目元に取付けば (ああなんぞいな) 手持無沙汰に 拍子揃へて わざくれ 
按摩けんぴき 按摩けんぴき さりとは引々ひねろ 自体某は東の生れ 
お江戸町中 見物様の 馴染情の御贔屓強く 
按摩けんぴき 朝の六つから日の暮る迄 (さりとはさりとはかたじけない) 
按摩冥利に叶うて嬉し 按摩けんぴき 按摩けんぴき 
[合方]
廓の三浦女郎様 ちえこちえ 袖をそっそと引かば おお靡きやれ かんまへて 
よい よい女郎の顔をしやるな ちえこちえ 袖をそっそと引かば かんまへて 
よい よい女郎の顔をしやるな ちえこちえ 
二人連立ち語ろもの 廓々は我家なれば 遣手禿を一所に連立ち 急ぐべし 
遊び嬉しき馴染へ通ふ 恋に焦がれて ちゃちゃと ちゃちゃと ちゃっとゆこやれ 
可愛がったり がられて見たり 無理な口舌も遊びの品よく 彼方へ云ひぬけ此方へ云ひぬけ 
裾に縺れてじゃらくらじゃらくら じゃらくらじゃらくら 悪じゃれの 
花も実もあるしこなしは 一重二重や三重の帯 ふすまの内ぞ候かしく

 ~~~~ 現代和訳対比~~~~~

二人椀久(ににんわんきゅう) 

たどり行く 今は心も乱れ候

末の松山 思いの種よ

 

松山の帰って行った道を、たどっているが、だんだん、心が乱れてきたと感じる。

末の松山という山へ、わたしの心は向かっているのだけれど。

あのや椀久は これさこれさ

うちこんだ とかく恋路の濡衣

 

勘当され、茫然としたまま立ち去ろうとしたら、椀久さんと、引き戻された。こうしてこうして、ふたりで恋の鼓を打ち合って。恋というものは、とかく涙で袖を濡らし、互いが濡れ衣のように、なるものなのだな。

干さぬ涙の しっぽりと

身に染々と可愛ゆさの

それが嵩じた物狂

とても濡れたるや 身なりやこそ

涙を乾かす暇もないほどしっぽりと、

身にしみじみと、いとおしいさが染みてくる。

それが高じて、物狂いになったのだが。

涙に濡れそぼった衣のまま、彷徨(さまよ)っている見であることよ。

親の意見もわざくれて

とかく耳には入相の 

鐘に合図の廓(さと)へ

行こやれ行こやれ さっさゆこやれ   ④ 

親に意見されようが、どうにでもなれと聞き棄てに、

何につけても親の言う事なぞ、耳に入れた事はなく、夕刻の鐘を合図に廓へ行きたいと躍起になり、いつでも、さっさと行こう、さっさと行こうと、思うばかり。

昨日は今日の昔なり

坊様坊様 ちとたしなまさんせ

墨の衣に身は染(そ)みもせで

恋に焦(こが)るる身は浮舟の

寄る辺定めぬ世のうたかたや

 

昨日はもう、今日から見れば昔のこと。

坊さま坊さま、ちょっとはお控えなさい、という声が聞こえてくるが、父に剃髪されてしまっただけで、墨ごろもに自分の身はまだ馴染んでいない。

いまだ恋にやきもき、この身は浮舟のようなもの。

舟をつなぎ泊める岸辺も定めず、世の中を泡のように行き過ぎるのみ。

由縁(ゆかり)法師のその一節(筋)に

智恵も器量も皆淡雪と

一中法師の歌の、ひとふしと同じ(「源氏十二段 浄瑠璃供養」)、智恵も器量も、みな淡雪(あわゆき)と消えてしまった。

消ゆるばかりの物思い

独り焦がるる一人ごと

恋しき人に逢わせてみや

とかく心のやる瀬なき         ⑦  

何を考えても、すぐ死にたいと思ってしまう。

独りで恋に焦がれ、独りごとを口にしているせいだろうか。恋しい人に遭わせてください。とかく心というものは、やるせないものだな。

身の果て何とあさましやと

暫(しば)しまどろむ手枕(たまくら)は

此の頃見する現(うつつ)なり     ⑧

今の自分の境遇は、なんとみすぼらしいことか。しばしのあいだ手枕で眠ると、夢の中では、むしろ正気に返ってぞっとする。

行く水に 映れば変わる飛鳥川

流れの里に昨日まで

はて 勿体つけたえ

 

 

 

 

<松山の視点>※廓(くるわ)へ帰る途中の、松山太夫の心の中

行く水に 映れば変わる飛鳥川

移り変わりの激しいその川の流れの里に、

つい昨日まで居たのだ。

はて。うつろいやすい恋にもかかわらず、

もったいぶってしまったものだわ。

誓文ほんに全盛も 我は廓を放し鳥

籠は恨めし 心ぐどぐどあくせくと

恋しき人を 松山に やれ末かけて 

かいどりしゃんと 

しゃんしゃんともしおらしく

君が定紋 伊達羽織 男なりけり又女子なり

片袖主と眺めやる

 

 

 

 

 

 

(吉原風景)

誓文がまかり通って生きづらい世の中だけれど、この私は廓の中では別格で、まるで放し飼いの鳥のよう。それでも籠の中にある境遇は恨めしく、心はくどくど、あくせくと動き回る。恋しき人を待ちながら、

ヤレ、未来のため、裾をしっかり両手で取り、

身持ち正しくしゃんしゃんと、しおらしく生きてきた。

恋しい人の定紋を染めた伊達羽織を身に纏い、

 

2/3

井筒の井戸を覗き込めば、水面(みなも)に映るのは男椀久であり、女である自分自身であり。

水面(みなも)の向こうから、片袖脱いだ主(ぬぐ=ぬし)さまも、こちらをじっと見つめている。

思いざしなら 武蔵野でなりと

何じゃ 織部の薄杯(うす さかづき)を

よいさ しょうがえ 〈繰り返す〉

恋のご指名のそのお杯(さかづき)、頂戴しましょう、

いっそ特大の武蔵野(杯の名前)で。何ならお高い織部の薄杯を、恋の契りに交わしましょう。

よいさ しょうがえは、掛詞?

恋に弱身を見せまじと

ひんと拗ねては背(せな)向けて

くねれる花と出てみれば

女心の強からで

あとより恋の せめ来れば

小袖にひたと抱(いだ)き付き

もうし椀久さん

さっても てっきり おひとりさま

 

 

恋しい人に弱みを見せるものかと、

すねたそぶりでピンと背を向け、縁切りを言い、

すねた花のように不機嫌そうに別れたけれど。

女心というものは、強いものではないために、足許(あしもと)から恋が攻めてくると、昔の人の歌った通り(「古今和歌集」)、ほんに、あとから恋の想いが寄せてきて。またもや、あの人の小袖へひたっと抱き付き、もうし椀久さん、とすがりついてしまった。

てっきり座敷牢にはひとりで居るのだと思っていた。

(松山が助けに行くと、襖の向こうに椀久の妻・おさんが控えていた)

ふられず帰る仕合せの

松にはあらぬ太夫が袖

 

 

(<椀久の視点>※松山太夫を追いながら、少しづつ狂乱の兆しが顕れる)

振られずに帰るのは幸せなこと。それを待っていたわけではないが、太夫に袖を引かれ、愛情を確かめることはできたと思う。

月の漏るより闇がよい

いいや いやいや

こちゃ闇よりも月がよい

お前もそうかと寄添えば

月がよいとの言草に

粋(すい)な心で腹が立つわいな

もうこれからが 口説のだん

仔細らしげに座を打って

袖尺着尺衣紋坂(そでしゃくきしゃくえもんざか)

ういこうむりの投頭巾(なげずきん)

語るも昔男山(むかし おとこやま)

 

 

 

 

 

会いたい人に会えもせず雲間(くもま)に洩れる月光も見ず、こうして闇夜のまま死んでしまうのかと、小野小町は嘆いたが、坊さん忍ぶにゃ闇が良い、月夜にゃ頭がぶうらりしゃらりと(坊さん忍ぶ唄)。

そう、座興唄にもあるじゃないかと言ったところ、

いいや、いやいや、コチャ闇よりも月が良い(コチャエ節)と唄で返され、

へぇ、お前はそうなのかいと、寄り添ったが(ソウカイ節)。

髻(もとどり)切られたこの身に向かって、月が良い、という言い草は、その心意気が粋(いき)すぎて、かえって腹が立つわいな。

もうここからが、口けんかの段。仔細了解した風に席を立ち、袖尺着尺、衣紋坂(えもんざか=吉原の土手)を登りながら、投げ頭巾(後ろを折った頭巾、法師や俳人が被るもの)に馴染みきれない坊主が語る、

尺にかかわる昔の自分の色自慢(男山の坂=男盛りの思い出、「古今集」序)。

筒井筒 井筒にかけし麿がたけ

老いにけらしな 妹見ざる間にと

詠みて送りける程に

其時女も 比べこし 振り分け髪も肩過ぎぬ

君ならずして誰(たれ)かあぐべきと

互いに詠みしゆえなれば 筒井筒の女とも 聞こえしは有常が 娘の古き名なるべし

ああ古い古い 女郎買いもしおが辛うなった

 

 

 

 

(<吉原土手にへたりこんだ、椀久の幻想>※もはや狂乱のルツボ)

筒井筒、井戸の高さと比べて遊んだわたしの背丈、

貴女が見ないうちにわたしは成長し、背が高くなりましたよと、和歌を詠んで送ったところ 女の方も

こちらも、長さ比べをした髪が長くなりました、

貴男さま以外、どなたが髪上げをして下さいますかと。

たがいに気持ちを詠みあい、そのせいで「井筒の女」と広まったのは、紀有常(きの ありつね)の娘であっ

3/3

て、井筒のとは、古い渾名(あだな)に違いない。

ああ、古くさい、古くさい。女郎買いも、だいぶん、しょっぱくなったわい。

お茶の口切 たぎらす目元に取り付けば

あら なんぞいな 手持ち無沙汰に

拍子揃えて わざくれ         ⑯

新茶を口切(くちきり)、たぎる湯音を聞きながら目を見れば、あら、なんぞいな、手持ち無沙汰のなぐさめに、拍子をそろえ、いたずらしかけてきたりして。

按摩けんぴき 按摩けんぴき

さりとは引け引けひねろ

自体 某(それがし)は東の生まれ

お江戸町中 見物様の

馴染 情けの ご贔屓(ひいき)つよく

按摩けんぴき

朝の六時(むつ)から日の暮(くる)る迄

さりとは さりとは かたじけない

按摩冥利に叶うて嬉し

按摩けんぴき 按摩けんぴき      ⑰

按摩しますよ、按摩いたしましょ。

こんな風に、引いたり、引いたり、ひねりましょ。

そもそも自分は東(あずま)生まれの力自慢。

お江戸中のご見物さまに、馴染(なじ)みやお情(な

さ)け、ごひいきをたまわります。

お肩もませて、いただきましょ。朝の六つから日が暮れるまで、いつでも呼んでいただけたら、かたじけなく存じます。

按摩冥利に叶うというもの、やれ嬉しいこと。

按摩しますよ、按摩いたしましょ。

廓(さと)の三浦女郎さま ちえごちえ

袖をそっそと引かば おお靡(なび)きやれ

かんまえてよい

よい女郎の顔をしやるな ちえごちえ

二人連(つれ)立ち語ろもの

 

 

吉原廓の三浦屋のお女郎さまよ(三浦屋の高尾太夫か)、智恵は後知恵。

袖をそっそと引かれたら、おとなしく、おなびきよ。(初期長唄「引車」)

覚悟を決めて、ヨイ。

良いから今は、女郎の顔をしないでおくれ。

智恵は後智恵、考えたって仕方がない。

ふたりで連れ立ち、恋を語って生きようじゃないか。

廓々(さとざと)は我家(わがいえ)なれば

やり手 かむろを 一所に連れ立ち

急ぐべし 遊び嬉しき馴染みへ通う

恋に焦がれて

ちゃちゃと ちゃとちゃと

ちゃっとゆこやれ

可愛がったり がられてみたり

無理な口舌も 遊びの品よく

彼方へ云いぬけ 此方へ云いぬけ

裾に縺れて じゃらくら じゃらくら

じゃらくら じゃらくら

そちらの廓(くるわ)もあちらの廓も、わが家みたなものだから。遣り手婆(やりてばばあ)も禿(かむろ)も連れ立ち、さぁ急ぎましょ、遊んで愉(たの)しい馴染みの店へ。

恋に焦がれて、ちゃちゃっと、ちゃとちゃと、

さっさと行きましょ。

かわいがったり、がられてみたり、

無理な言い分で始まる口げんかも、遊びであれば品良く見える。

あぁも言いぬけ、こうも言いぬけ、

裾にもつれて倒れてしまい、じゃらくら、じゃらくらと。じゃらくら、じゃらくら。

悪じゃれの 花も実もあるしこなしは

一重二重や三重の帯

ふすまの内ぞ そろかしく

悪ふざけのなかにも、花も実もある、色っぽい仕草。

一重二重(ひとえ ふたえ)と帯を解き、三重の帯まで取り去るり、ふすまの中で、、、

おっと、これにて候(そうろう)つかまつる。。

 ~~~~~豆知識~~~~

 ④ 鐘に合図の廓(さと)へ行こやれ行こやれ~訳:夕刻の鐘を合図に廓へ行きたい行きたい~

遊郭の夜の部は、暮六ツ(現在の18時頃)の鐘を合図に始まります。

・江戸時代、時刻を知らせる鐘の音は、日の出36分程前の薄明るくなった時を明六ツ(現在の6時頃)、日没後36分頃のまだ薄明るい黄昏時を暮六ツ(現在の18時頃)として、昼と夜の境目としていた。

その間を昼夜をそれぞれ6等分して一刻(いっとき)とした。これは不定時法といって、夏と冬の季節によって、日の出・日の入りが違ってくる。それでも江戸の人々は各地に設けられた時の鐘に、なんの不便も感じなかったらしい。しかしのちに、これを一々変更するのは面倒なので、二十四節気ごと、

すなわち15日に一度くらい、明六ツと暮六ツの時刻を変える習慣となっていった。

 

⑪〈思いざしなら 武蔵野でなりと 何じゃ 織部の薄杯(うす さかづき)を よいさ しょうがえ〉

訳:恋のご指名のそのお杯を頂戴しましょう、いっそ特大の武蔵野で。何ならお高い織部の薄杯を、恋の契りに

 交わしましょう。よいさ しょうがえ(掛詞?)

この部分は、椀久と松山太夫が、お座敷で初めて顔を合わせた場面です。「思いざし」というのは、

自分が先に口を付けた杯〔さかずき〕を渡して、誰かに酒を飲ませることで、「私はあなたのことが気に入りました」「惚れました」という合図です。武蔵野というのは、実在した織部焼の伝説の名器です。薄〔すすき〕の模様が入った、とても大きな杯だったそうです。

・婚礼の際には、三々九度で同じ器を使うことなど、日本人にとって、「同じ器で飲む」という行為は、特別な意味を持ち、とても重みのあるものなのです。

 

⑯ お茶の口切り

初夏八十八夜の頃に摘み取った茶の新芽は茶壺に入れて封をし、夏を冷暗所に置いて過ごし、更にうま味の出るのを待ちます。立冬の頃、その茶壺の口封を切って葉茶を取出し、茶臼で挽いて使い始めます。これを口切りといって、茶人にとっては「茶の正月」とも考え、炉開きと合せて目出度い行事の一つです。

 

⑰ 「按摩けんぴき」というのは、初演当時に流行っていた歌を取り入れたものだそうです。けんぴきは「肩こり」のことですが、「按摩けんぴき」となると「マッサージ」という意味です。「二人椀久」の場合は、「男女がマッサージしてじゃれて遊ぶシーン」と説明されるようです。

 

三味線のタマ:「二人椀久」の三味線と踊りのハイライトは⑰「按摩けんぴき、按摩けんぴき」から始まります。茶壺の口を切って、お湯の沸くのを待つ間に、手持ち無沙汰から二人でたわむれながら踊り出す場面です。ここから曲は一辺して、明るく軽快なテンポになります。

・三味線ではタマといって、替え手以外の三味線は2小節程度の長さの決まった手を繰り返し弾き続け、替え手が(おそらく本来は即興の)三味線のソロを弾きます。ここが三味線を弾く人にとっては大変むずかしく、そしてたまらなく魅力的な音曲らしいです。

吉 原 雀

吉 原 雀    

            明和五年(1768)十一月  作詞 初代 桜田治助  作曲 富士田吉治 杵屋作十郎 

凡そ生けるを放つこと、人皇十四代の帝、光正天皇の御宇かとよ、養老四年の末の秋、宇佐八幡の託宣にて、諸国に始まる放生会

浮寝の鳥にあらねども、今も恋しき一人住み、小夜の枕に片思い、可愛い心と組みもせで、なんじゃやら憎らしい。 

その手で深みへ浜千鳥、通い馴れたる土手八丁、口八丁に乗せられて、沖の鷗の、二挺立ち、三挺立ち、素見ぞめきは椋鳥の、群れつつ啄木鳥格子先、叩く水鶏の口まめ鳥に、孔雀ぞめきて目白押し、見世清搔のてんてつとん、さっさ押せ押せ、ええ。

 馴れし廓の袖の香に、見ぬようで見るようで、客は扇の垣根より、初心可愛ゆく前渡り、

さあ来たまた来た障りじゃないか、またお障りか、お腰の物も合点か、編笠もそこに置け、二階座敷は右か左か、奥座敷でござりやす、はや盃持ってきた、とこえ静かにおいでなさんしたかえ、という声にぞっとした、しんぞ貴様は寝ても覚めても忘られぬ、笑止気の毒またかけさんす、何なかけるもんだえ。 

そうした黄菊と白菊の、同じ勤めのその中に、ほかの客衆は捨て小舟、流れもあえぬ紅葉ばの、目立つ芙蓉の分け隔て、ただ撫子と神かけて、いつか廓を離れて紫苑、そうした心の鬼百合と、思えば万年青、気も石竹になるわいな、未は姫百合男郎花、その楽しみも薄紅葉、さりとはつれない胴欲と、垣根にまとう朝顔の、離れ難なき風情なり。

 一薫きくゆる名香(仲人)の、その接ぎ木こそ縁のはし、そっちのしようが憎いゆえ、

隣り座敷の三味線に、合わす悪洒落まさなごと。 

女郎の誠と玉子の四角、あれば晦日に月も出る、しょんがいな、玉子のよいほい、ほい、よいほい玉子の四角、あれば晦日に月も出る、しょんがいな、一薫きはお客かえ、

君の寝姿窓から見れば、牡丹芍薬百合の花、しょんがいな、芍薬よいほい、ほい、よいほい、ほい、よいほい芍薬牡丹、牡丹芍薬百合の花、しょんがいな、

つけ差しは濃茶かえ、ええ腹が立つやら、憎いやら、どうしょうこうしょう、憎む鳥鐘、暁の明星が、西へちろり東へつろり、ちろりちろりとする時は、内の首尾は不首尾となって、親父は渋面嚊は御免、渋面御免に睨みつけられ、去のうよ戻ろうよと、いうては小腰に取りついて、ならぬぞ、去なしゃんせぬ、この頃のしなし振り、憎いおさんがあるわいな。 

文の便りになあ、今宵ごんすとその噂、いつの紋日も主さんの、野暮な事じゃが比翼紋、離れぬ仲じゃとしょんがえ、染まる縁しの面白や。

げに花ならば初桜、月ならば十三夜、いづれ劣らぬ粋同士の、あなたへいい抜けこなたの伊達、いづれ丸かれ候かしく。


◎【唄の始まりはこんな感じです】生きているものを野に放つことがはじめて行われたのは、四十四代目の帝、光正天皇(正しくは元正天皇)の御治世であったかと言うよ。それは養老四年(720年)の秋のこと。宇佐八幡さまのお告げによってはじまった放生会は、それから津々浦々に広まっていったのだよ。

◎ 題名の「吉原雀」とは、葦の原っぱに住む「ヨシキリ」という鳥の別名。大きな声で騒がしく鳴くことから、後に吉原遊郭の内情に詳しい人や、吉原遊郭をただ冷かして歩く素見の客を指す言葉になりました。 

◎ まず最初に、吉原仲の町を背景に夫婦の鳥売が、放生会の由来や、吉原の生活模様を語り踊ることから始まります。そしてこれには、鳥売に化けた源義家の危機を鷹の精が救うという話が裏に隠れています。

 ◎ 遊女の甘い誘い文句、素見の客の騒ぎ、座敷遊びや痴話げんかの様子が、鳥づくし・草花づくしの唄をはさみながら、軽妙な会話風の歌詞で綴られます。客の登楼から夜明けまでが概ね時間の経過にそって綴られます。登場するのは一組の男女だけではありません。武士や町人、うぶな客や馴染み客、いくつかの遊びの光景がアンソロジーのように編まれて、吉原の夜が描かれています。

◎ 江戸時代の「遊び場」の代表といえば吉原。現在の台東区千束(浅草寺から少し北に行ったところ)にあった約2万坪(甲子園球場の1.5倍ほど)の敷地面積を持つそこには、幕府から公に営業を認められた遊女屋が軒を連ねていました。そこは最先端の文化が花開く社交場としての顔も持ち、多くの流行を発信していました。

 

【吉 原 雀 】  解 説 1

・凡そ生けるを放つこと、人皇十四代の帝、光正天皇の御宇かとよ、養老四年の末の秋、宇佐八幡の託宣にて、諸国に始まる放生会(ほうじょうえ)

 

・浮寝の鳥にあらねども、今も恋しき一人住み、小夜の枕に片思い、可愛い心と組みもせで、

なんじゃやら憎らしい。 

・生きているものを野に放つことがはじめて行われたのは、四十四代目の帝、光正天皇(正しくは元正天皇)の御治世であったかと言うよ。それは養老四年(720年)の秋のこと。宇佐八幡さまのお告げによってはじまった放生会は、それから津々浦々に広まっていったのだよ。

・水に浮きながら寝ている鳥じゃないけれど、落ち着かず心ゆらゆら、今も私は独りぽっち。貴方のことを考えて夜も寝られないほどなのに、貴方はそんな私を可愛いと思ってもくれなくて、なんとも憎らしい

・その手で深みへ浜千鳥、通い馴れたる土手八丁、口八丁に乗せられて、沖の鷗(かもめ)の、二挺立ち、三挺(ちょう)立ち、

 

・素見(そけん)ぞめきは椋鳥(むくどり)の、群れつつ啄木鳥(きつつき)格子先、たたく水鶏(くいな)の口まめ鳥に、孔雀ぞめきて目白押し、見世清搔(みせさががき)のてんてつとん、さっさ押せ押せ、ええ。  

・そんな手口で深みへはまってしまった俺たち、大門まで八丁ある吉原土手を、手練手管に乗せられて、今日も駕籠に乗ってせっせと通う。お大尽さま達は2~3人の漕手を使って、早船の猪牙船〔ちょきぶね〕に乗って吉原へ。

・遊里をひやかしてあるくお登りさんたちは、大挙して訪れて、見世先に群れている、女を口説いたり、格子を叩いては女にしゃべりかけたり、押し合いへし合い。みんな結構おしゃれして集まって来てる。その内、女郎登場の知らせの三味線が鳴った。さぁさぁ、見世にあがろうよ。

○浜千鳥=江戸の庶民男性、沖の鴎=お大尽さまにたとえています。
○土手八丁:客が歩く隅田川入り口から吉原までの山谷堀の土手が八丁ありました。
○二挺立ち:二挺の(二人)艪で漕ぐ船足の速い船。特に,吉原通いの猪牙船(ちよきぶね)をいう。この時代、お大尽さまは隅田川を上って吉原へは猪牙で通ったのです。
○素見ぞめき:遊里をひやかしてうろつくこと
○ぞめく: 浮かれ騒ぐ。遊郭や夜店などを、ぞろぞろさわぎながら歩く。また、ひやかして歩く。
○素見:品物や遊女を見るだけで買わないこと。またその人。素見し(ひやかし)。
○椋鳥:椋鳥は群れて飛ぶ習性があり、江戸時代、農閑期になると江戸近郊から江戸に仕事を求めて大挙して訪れては去っていく人々を椋鳥にたとえ、転じて田舎から訪れたお登りさん。
○啄木鳥:啄木鳥は木を嘴で叩いて(ドラミング)求愛するそうです。おそらく見世先の格子から、中の遊女に求愛するさまと重ねているのでしょう。
○水鶏:夏、水辺の蘆の茂みや水田などに隠れて、キョッキョッキョキョと高音で鳴く鳥。古来、歌に多く詠まれてきたのは緋水鶏で、その鳴声が、戸を叩くようだとして「水鶏叩く」といわれる。
○見世清掻き:江戸吉原の遊郭で、遊女が店先に出て並ぶ合図に弾いた、歌を伴わない三味線。

○まめ鳥:イカルの別名。木の実を嘴で廻したり転がしたりするため古くは「マメマワシ」や「マメコロガシ」、木の実を好んで食べるため「まめうまし」、「豆割り」などと呼ばれた。
*ちなみに「ひやかし・素見し」は、「浅草紙」という再生紙を作っている紙鋤き職人が、紙の原材料を煮て冷めるのを待っている間、吉原へ暇つぶしにいって、遊ぶ気もないのにぶらぶらしていたことが語源となっています。「紙洗橋」というのが現在でも残っています。

・馴れし廓の袖の香に、見ぬようで見るようで、客は扇の垣根より、初心可愛ゆく前渡り、

 ・さあ来たまた来た障りじゃないか、またお障りか、お腰の物も合点か、編笠もそこに置け、二階座敷は右か左か、奥座敷でござりやす、はや盃持ってきた、とこえ静かにおいでなさんしたかえ、という声にぞっとした、しんぞ貴様は寝ても覚めても忘られぬ、笑止気の毒またかけさんす、何なかけるもんだえ。

・客は扇で顔を覆って、扇の骨の隙間から見るような見ないようなそぶりで、どうやら初心らしいその様子が可愛い。

・客はどうやら武士のようで、腰の物を預け、体面上かぶっていた編笠も置いていきます。遊女と遊ぶのは妓楼の二階、案内に従って行くと早くも酒が出てきます。そしてそこに、「いらっしゃったのね」と遊女の声がしてびっくり。続いては客と遊女のやり取りで、「本当にお前のことは、寝ても覚めても忘れられない」「それはお気の毒。心にもないことを言ってこちらの気を弄らしゃんす」「何を言うか、本当だよ」と

・そうした黄菊と白菊の、

 ・同じ勤めのその中に、ほかの客衆は捨て小舟、流れもあえぬ紅葉ばの、

  ・目立つ芙蓉の分け隔て、ただ撫子と神かけて、いつか廓を離れて紫苑、そうした心の鬼百合と、思えば万年青、気も石竹になるわいな、未は姫百合男郎花、その楽しみも薄紅葉、さりとはつれない胴欲と、

 ・垣根にまとう朝顔の、離れ難なき風情なり。 

・こなさんがそんな気とは知らなかったわいな。
・同じ座敷勤めでも他の客は貴方と別、他の人は一夜限り、まるでわたしゃは捨て小舟のよう、行き場なくせき止められている紅葉の葉のよう。葉                

・美人の目立つ人気女郎だけは別扱い。神さまに祈るわいな、いつか廓をでて一緒になりたいと。そんな風に必死に思う心、考えれば考えるほど気もせいてしまうと言えば、主さんはそんな楽しみは望み薄なんてつれないことをいうの、ひどいわえ。
・そういって、女郎は朝顔のように主さんにまとわりついて離れがたい様子

○撫子:江戸時代の園芸ブームで人気がでた。「撫でし子」と語意が通じることから、しばしば子どもや女性にたとえられ、和歌などに多く参照
○芙蓉:芙蓉は美人のたとえ。「芙蓉のかんばせ」「芙蓉のまなじり」などという言葉がある。

・一薫(ひとた)きくゆる名香(仲人)の、その接ぎ木こそ縁のはし、そっちのしようが憎いゆえ、

・隣り座敷の三味線に、合わす悪洒落まさなごと。

・香木を継ぎ加えて、ひとたき焚いた伽羅の香が痴話喧嘩の仲直りのきっかけになる。(二人の会話)『主さんのやり口が、あんまり憎たらしいから、わたしゃ・・・』

・『なんだえ、隣座敷から聞こえてくる三味線に合わせて、ちょっと悪ふざけしただけだよう』

・女郎の誠と玉子の四角、あれば晦日に月も出る、

 ・君の寝姿窓から見れば、牡丹芍薬百合の花、

・女郎に誠実さがあったり、四角い玉子があるのなら、晦日新月)にも月がでるはずだ

・君の寝姿を窓から見ると綺麗だな。

・つけ差しは、濃茶かえ、ええ腹が立つやら、憎いやら、どうしょうこうしょう、憎む鳥鐘、暁の明星が、西へちろり東へつろり、ちろりちろりとする時は、

・内の首尾は不首尾となって、親父は渋面嚊は御免、渋面御免に睨みつけられ、去のうよ戻ろうよと、いうては小腰に取りついて、ならぬぞ、去なしゃんせぬ、この頃のしなし振り、憎いおさんがあるわいな。 

・返杯が濃茶なの?ってことはもう朝で帰らなくちゃいけないんだね。腹立たしいなぁ。朝が来たことを告げる鳥や鐘はホント憎いよ。
夜明けの明星が西の空、東の空でちらちらする時は、

・どうやら遊興が過ぎて両親の不興を買ったようです。ということで金を使い過ぎないうちに家に戻ろうとしますが、金づるは帰さないのが遊女の手管。「行っちゃイヤ」とすがりつきます。

○付け差し:口を付けた盃で返盃すること。もう朝だから、お酒ではなく濃茶が入っている。

○憎む鳥鐘:朝になったことを告げる鳥や鐘は憎まれるため

文の便りになあ、今宵ごんすとその噂、いつの紋日(もんび)も主さんの、野暮な事じゃが比翼紋(ひよくもん)、離れぬ仲じゃとしょんがえ、染まる縁しの面白や。

『今日主さんが来てくださると手紙をくれて、廓はその噂でもちきり。紋日には必ずいつも、野暮は承知でお前の紋を使って、比翼紋の着物や夜具を作り、二人は離れられない仲だと見せつけてやるわいな。ああもっともだ。『互いに染り切ったゆかりの色の面白さときたら』

紋日(もんび)物日ともいう。 江戸時代、官許の遊郭で、五節句などの特に定めた。 この遊女は客をとらねばならず、客も揚げ代をはずむ習慣であった。正月(元日を除く)や節分、八朔など吉原の行事日のこと。紋日には吉原全体でイベントが行われるばかりでなく、遊女も特別な衣装を着るなどしました(衣装代は大概遊女の自腹)。年間通しての紋日の数は時代によって変わり、1797年以降は年間18日と決められたのですが、《吉原雀》が初演された1768年には80日以上紋日があったようです。紋日には揚代や食事代などが全て倍額になったと伝えられ、遊女は必ず客を取らなければならなかったようです。客がつかなかった遊女は自分の揚代を自腹で払う「身揚り」をしなければなりませんでした。

比翼紋(ひよくもん)中国の伝説「比翼の鳥」から来たものです。白居易(はくきょい)の長恨歌(ちょうごんか)にも詠まれており、男女が仲むつましい様を表します。恋人同士が互いの紋を組み合わせてつけたペア紋で、並び紋、二つ紋ともいいます。江戸中期、互いの小袖にこっそりつけていたり、婚礼布団につけていたり庶民の間で流行しました。

○しょんがえ:調子をとるために差し入れる囃子詞 (はやしことば) 。しょんがい。しょんがいな。

げに花ならば初桜、月ならば十三夜、いづれ劣らぬ粋同士の、あなたへ言い抜けこなたの伊達、いづれ丸かれ候(そうろう)かしく。

「なるほどなぁ、花を見るなら咲き初め、月を愛でるなら十三夜だね」(ここはくどく女郎に男が答えている。廓遊び、客と女が馴染みきってしまうより、親しくなり始めの頃がワクワクして楽しいものだよと言い返している。)
「いつかはこの仲が、丸く収まりますように。かしこ。」(最初が「文のたより・・・」で始まったので、ここは女性が手紙で使う結語を用いて終えている。)

 

【吉 原 雀 】  解 説 2

 <曲の構成と聞き所>
放生会のいわれが重々しく語られる
② <聞き所1>転調し、一転して明るく華やかな吉原の風景が語られる。客を「鳥」にたとえた「鳥尽くし」。

③ 再び転調し、花魁の出と始めて登楼するうぶな客の様子がとぼけた音調で描かれる。
口説き。遊女が馴染みの客にいつか身請けをして欲しいという心情をしっとりと唄う。「花尽くし」の歌詞。
⑤ <聞き所2>踊り地から始まり、座敷の楽しい様子が演奏される。三味線は、超絶技巧が必要なところ。
⑥ 女郎をユーモラスに唄ったパート
⑦ 馴染みの客が登楼するときの女の嬉しい心情と男のふざけた受け答えで楽しく締めくくられる

 ◎ 「吉原雀」の本名題は『教草吉原雀』で、『教草:おしえぐさ』とは吉原の遊びはハマると、かくも大変だから程々にするように』という教訓のことである」という解釈されているようです。「吉原雀」とは、葦の原っぱに住む「ヨシキリ」という鳥の別名。大きな声で騒がしく鳴くことから、後に吉原遊郭の内情に詳しい人や、吉原遊郭をただ冷かして歩く素見の客を指す言葉になりました。

◎ ・初めから放生会までが、それ以降の唄と比べて、なぜか重々しくて、違和感さえ感じますが、その理由は元々この曲が歌舞伎狂言中の所作事であったことにあります。初演は明和5年(1768年)11月、江戸市村座の顔見世狂言『男山弓勢競(おとこやまゆんぜいくらべ)』の二番目大切りの所作事です。八幡太郎義家(源義家)奥州攻めの物語で、放生会の夜、義家は(鳥売り小笹の左次平衛)に身をやつして鳥を売りに吉原にやって来て、同じく鳥売りの女(阿倍宗任の妻・善知鳥・化けた鷹の精)と踊りながら互いの素性を探り合うというものです。そのため、最初武張った重々しい調子で放生会の始まりのいわれが語られることになります。

・現代ではこの設定による演出は残っておらず、吉原は仲の町、桜のもとで、男女の鳥売りが踊る、というだけの設定になっています。

◎ ・放生会(ほうじょうえ)とは捕獲した魚や鳥獣を野に放し、殺生を戒める宗教儀式です。仏教の戒律である「殺生戒」を元とし、日本では神仏習合によって神道にも取り入れられました。この起源については諸説あり、似たような行為は養老4(720)年よりずっと昔から行われていたようです。はっきりとしている点は、徳川将軍家や有力大名家が行っていた伝統猟で、これが明治時代以降もずーと皇室に受け継がれてきています。

・ちなみに、現在,宮内庁が管理している鴨場は,埼玉県越谷市の「埼玉鴨場」と千葉県市川市の「新浜鴨場」の2か所があり,両鴨場のそれぞれ約12,000平方メートルの元溜(もとだまり)と呼ばれる池には,毎年1万羽を超える野鴨などの渡り鳥が越冬のため飛来しています。鴨場は,鴨の狩猟期間(11月中旬から翌年2月中旬)に,天皇陛下の思召しにより、日本に駐在する外交官や賓客接遇の場としても用いられております。鳥を傷つけない伝統的鴨猟を紹介し、それを通じて日本の自然・伝統・文化・歴史を感じてもらう絶好の機会となっています。

・訓練したアヒルを使い鴨を猟者が潜む直線的な細い水路に誘導し、飛び立つ瞬間を網で捕獲します。水路で飛翔方向が限定されるため、網を振るだけで子供でも容易に捕獲が可能です。その後捕獲した鴨は国際鳥類標識調査に協力するために種類・性別などを記録し、標識(足環)をつけ放鳥されます。

◎ 様々な地域から集められていた吉原の遊女たちは、方言のままでは意思の疎通が難しかったということもあり、「廓言葉」と呼ばれる独自の言葉を話していました。「~でありんす(=であります、です)」など京風の独特な語尾を特徴としたため「ありんす言葉」とも呼ばれました。細かいところが遊女屋ごとに少しずつ違っていたそうで、他にも「~おす」「~ざんす(ざます)」などと話されていました。

 

 

記名式SUICAはとても便利

JR東日本SUICAには10月以降、記名式にするとポイントがたまります。そこで私の家族全員は新たに記名式SUICAを作りました。従来のSUICAは買い物などで使い切り、残額0円にして駅で返却し500円もらいました。

先日クリーニングに出した時、ポケットにSUICAを入れたまま出してしまいました。5日後SUICA紛失に気づき、記名式SUICAは再発行可能と、どこかで読んだことを思い出し、緑の窓口に行きました。本人確認書類を提示するだけの簡単な手続きでした。失くしたSUICAはその時点で無効化されるそうです。紛失届け完了の証明書をもらいました。翌日緑も窓口に行き、証明書と本人確認書類を提示して、停止時点での残額で再発行してくれました。超ラッキー。

今回のケースでは、紛失時点での残額がかなりあり、1200円ほど「使われた」だけで、再発行手数料1020円と合わせ2220円ぐらいの損害で済みました。

JRのサービスの良さに感謝一杯です。